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3.揺らぎ(ゆらぎ)
車中で虹平はずっと浮かない顔をしていた。
(いっそ残業させてくれたらよかったのに)
得意先への挨拶周りが終われば、そのまま直帰してよいという通達があり、裏の仕事も今のところ急を要することもなく、結果、家に帰る以外何もすることがなくなってしまったのだ。
(こういう時にこそ襲撃でも抗争でもあれば、張り切って出張ってやるってのに)
やけっぱちに思いながらステアリングを操作する。
今乗っているのは虹平の愛車で黒のスポーツカーである。普段なら重いエンジン音に心地よく浸りながらドライブを楽しむのだが、今の気分のままでアクセルを踏むと周囲に爆音を響かせてしまいそうで、握る手を開いたり閉じたりして何とか気を紛らわせていた。
憂鬱の原因は、あの暗殺者のことである。
金さえ払えば人を殺めることを厭わない殺し屋で、ほぼ事情通といって過言ではない相手が自分に接近してくる意図は何なのか。
これまでの会話を振り返って考えると何も裏がないように感じる。
暗殺者らしからぬ風貌はもちろんだが、その態度はあまりに無防備で口に出す言葉は子供のように幼い。
あまりに素直。あまりに無垢。
例えば映画や小説などで描かれる暗殺者などは、見かけからして強面なうえに冷徹であったり凶暴だったりして、仕事を完遂することのみに徹するし、中には殺戮を愉しむ者もいる。
あるいは逆に美しい容貌であれば、魅惑的な笑みを浮かべながら残虐な行為を厭わず、そのギャップに恐怖するというパターンもある。
あの男はどちらかといえば後者だろう。
学生風情を装い、愛くるしい顔立ちをしていながら平然と銃を構える。死体が転がっていても無表情を貼りつけたままで、その後は普通に表社会に紛れることができるのだろう。
人を殺したその手でハンバーガーを普通に頬張っている、そんな光景が自然と思い浮かぶ。
だから、どんなに人懐っこく接してきても、気安く話しかけてきても、それが真実“彼本来の姿”だとは断定できないのだ。
(何を企んでいる――)
自分に接触してくる理由は何だ?
虹平は色々と考えを巡らせた。
今の組織の状態から推察してみる。
前回の取引を成功させたことで、勢力圏をかなり広げることができた。
小競り合いは多々あるが、それを治められないなどというレベルは過ぎてしまっている。上が出張らずとも簡単に掃除できるほど組織は大きくなっているのだ。
この巨大な牙城を崩すには相当の力を有し、情報力に長け、緻密な策略を巡らせなければ不可能である。
では内部からウイルスを侵入させて、虫食いのように菌を撒き散らせ崩壊させていく手はどうか。 そのために自分を取り込み内部情報を引き出そうとしているのなら。
(有り得ないな……)
虹平は溜息をついてシートに背中を押しつけた。
(暗殺者は依頼された要人を影から殺すことが役目だ。組織的な依頼だったとしてもターゲットに近づくために周囲に接触を図るなんてまわりくどいことはしないし、何よりその姿を曝すことは計画を遂行するのに致命的になりかねない。オレ自身をターゲットにしているならなおさらマヌケな行為だ)
結局、いくら考えても何も答えが出ないのだった。
気分が晴れないまま帰路に付くべく車を走らせる。やがて高速を下りて一般車道に入り、ちょうど交差点に差しかかろうとしたときだった。
信号が赤に変わったのを見て減速をした虹平は、左側の視界に何かが近づいてくるのを感じて視線を向けた。
コツンとノックされ、条件反射でウィンドウを下げる。
「やっと来た。乗ってええ?」
虹平が眼の前で小さく微笑む人物に茫然としていると、相手は気に留めることなく「開けてな」と一言言うなり反対側へと回り込んだ。
それを無意識に眼で追っていた虹平は、助手席の窓を叩く音と背後からのクラクションで一気に意識を引き戻された。
慌ててロックを解除する。
「はよはよっ! 後ろの人怒ってんで!」
乗り込んできた相手は、いそいそとシートベルトをしつつ急かせる声を上げた。
やけくそになった虹平は、クラッチを上げるとともに思い切りアクセルを吹かせて、ドカンと車体に衝撃を与えた。
「わっ、怖っ!」
交通量が少ないとはいえ、二車線をほとんど蛇行するように走り抜ける虹平に、助手席の男は慌てた声を出してシートベルトを掴んだ。
「ちょお、安全運転、安全運転! そんなスピード出すなや。ゆっくりな、ゆっくり!」
「うるせ。これぐらいのスピードで怖がんな。暗殺者のくせに」
「暗殺者のくせにて。んなもん関係あらへんわ。怖いもんは怖いの! 事故ったらどないすんねん!」
「だから何でそんな心配すんの。どんな状況でも自分は助かるような訓練受けてんだろ? スタントマン顔負けのアクションできんじゃねえの?」
「……どないしたん? なんか怒っとんの?」
こちらの機嫌を伺うみたいなしんみりとした声に、虹平は内心で舌打ちした。
(アホか、オレ。何こいつに当たり散らしてんだよ)
とはいえ、この苛立ちの原因は紛れもなく横にちんまりと鎮座している小犬もどきなのだが、虹平はそれを口に出す気はさらさらなかった。
あまりにもみっともない。
相手の真意が図れずにくさっていたなどと。
「おまえさ、ずっとあそこで待ってたのか?」
「うん? いやずっとやないよ。虹平が仕事終わりそうなころ見計らって、帰り道をてくてく歩いてたんや。したらちょうどあの辺で虹平が追いついた」
「歩いてたって、あの距離をか!?」
驚いて思わず助手席を振り返ると、冷静な声で「前見て、前」と言われ向き直るが、眉をひそめて自分の会社から自宅までの距離を測ってみる。
軽く十キロはあるはずだ。
「……さっきの所まででも一般道を走ってれば七キロ強はあるはずだぞ。オレは高速に乗るからかなり短縮されるけど、おまえ一般道をずっと歩いてきたのか?」
「うん。それこそ虹平、そんな驚くことやないやろ? おれは暗殺者やで? これでも身体能力は他の人たちとは、ちぃと違うもんや」
さらりと返されて、虹平はバツの悪い表情になる。
「そうか……いちいち言うことじゃなかったな」
「気にせんでええよ」
笑いを含みながら言われたおかげで、虹平はほっと息をついた。
しかし相手はそう簡単に気持ちを落ち着かせてはくれない。ぼそりとくぐもった声が難問をふっかけてきた。
「あのさ、おれの名前、ちゃんと憶えとる?」
「え?」
「さっきから“おまえ”ばっかやもん」
「……そうか?」
「うん。はい、おれの名前は何でしょう?」
拳をマイクを持っているように見立てて、助手席からにゅっと伸びてきた。
言葉に詰まった虹平は、挙動不審者のごとく首を前と隣へ交互に巡らすはめになった。
それを見て呆れたのか、盛大な溜息が聞こえる。
「おれはちゃんと虹平の名前憶えとったのに。ずっと忘れんかったのに……。虹平ってけっこう冷たい人間やったんやなぁ」
この言葉にはちょっと反論したくなった虹平である。
確かに自分は温かい人間とは言えない。むしろどうでもいい相手に対してはとことん冷たくなれる。
だが、この男に関しては、まさかずっと思い巡らせていたとは言えないが、その存在は虹平の中で大きくなっていて、再会した今、自分にとっての存在理由をあれこれ思案していたのには違いなかった。
だからちゃんと憶えている。
「ふん。緑、だろ」
ぶっきらぼうに言うと、くすくす笑う声がする。
「そんなめんどそうに言わんでもええがな。ああそや。はい、これ」
「何? ああ……」
緑が手渡したのはタバコだった。
虹平は律儀なヤツだとボックスを手の中で転がしながら、それをまた緑に差し出す。
「開けて」
「ん」
素直にフィルムを剥がし、軽く振って一本取り出すと、フィルターを虹平のほうへ向けてやる。
それを銜えた虹平は、さらに「火」と一言。
すかさず緑は自分のパーカーのポケットからライターを取り出して虹平の前にかざす。
悠々とした表情で煙を吐き出す虹平。
その姿を見て、緑はぽろっと溢した。
「なんやおれ、舎弟みたい」
「ふはっ、はははっ、とっとっ」
思わず吹き出した虹平は、タバコを落としそうになって慌てて手を添えた。
笑いを残しながら、つと口に出す。
「なるか? オレの舎弟に」
「え?」
眼を丸くして自分を見ている緑を視界の隅に入れながら、虹平は何気なく出てしまった台詞に内心驚きながらも、自分の中にすとんと納まりよく居座っていることに気づいた。
そのほうが楽だと思ったのだ。
同じこいつが傍にいるなら身内であれば安心だと。
本来の虹平なら出会ってまだ二度目の人間に、興味を惹かれたり親しみを覚えたりすることは稀であるばかりか、出会った状況もお互いの立場も通常からかけ離れているにもかかわらず、これほどまでに関心を寄せるなど有り得なかった。
おまけにあれほどその存在を危ぶみ警戒していたはずなのに、自然と会話が成立するし二人だけの車内の空気に馴染んでしまっている。
(こいつのペースに巻き込まれることが、いやじゃない、んだよな)
それもまた一興かと、虹平はタバコを銜えたままの唇で笑みを作った。
「で? どこ行くんだっけ?」
「あ、ああ、えっと……海」
「オーケィ」
いつのまにかふっ切れてしまった虹平に対して、緑はそんな虹平の態度に戸惑いながら、ひっそりと唇を噛み締めていた。
そっと右腕に触れながら。
* * *
夕闇が降りてきていた。
暗い灰色を映しはじめた雲と、太陽の朱い閃光に染められた空とが眼の前に迫ってくる。
こんなふうに存在感のある景色を目の当たりにすると、人の力では決して創造できない自然の偉大さを痛感してしまう。
緑は海岸を沿う堤防に横付けされた車から降りると、しばしその光景に見入っていた。
「どした? ぼーっとして」
「ん……」
虹平に声をかけられても生返事を返すだけで、そのまま砂浜へと降りて行く。
そんな緑の様子を特に気にするでなく虹平も後をついて行った。
緑はそのまままっすぐ波打ち際へと歩いて行く。引いて行く波に誘われるように。
「おーい、そのまんま行ったら濡れるぞー」
「え?」
緑が振り向いた瞬間、波は思いっきり緑のスニーカーにぶつかってきた。
「おわっ、たっ、ちゃっ、あ~」
飛び跳ねて後ずさった緑の背後で虹平が愉快そうに笑う。
「あっはっはっ、バッカだなあ、何やってんだ、おまえ?」
「やかましっ! おまえももうちょいはよ言えや!」
「何だよ、オレのせいかぁ?」
「あ~んもう濡れてもた~。これお気に入りやったのにぃ……」
緑は口の中でぶつくさ言いながら、波から離れた砂浜に座り込むと、濡れて砂まみれになったスニーカーをはたいている。
濡れたものは乾かないと何ともなりようがないのだが、とりあえず何かしたいらしい。砂を払ったり、汚れるだろうにパーカーの袖口を引っ張って水分を拭ったりしている。
その傍らに立った虹平が呆れた溜息をついた。
「そんなもん洗って乾かせばまた綺麗になるじゃん。革使ったとこないんだろ? それ」
「うん。はあ……まあそうなんやけどさ……なんや濡れたことに落ち込んだ」
「……そんな大事にしてたのか?」
「いや、そうでもない」
「何だ、そりゃ」
訳わかんねえなと呟いて、虹平は周囲を見渡すと座れそうな場所を探した。
遊泳禁止の海岸であるため、海の家など屋台がないせいで、日が暮れかけた今頃になると幾分人が少なくなる。しかし、ちらちらとカップルはいるようで、座れそうな岩や流木、砂浜へ下りていく階段口などはすでに占拠されている。
虹平は溜息をついて、何故か自分を見下ろし、次いでしゃがみ込んでいる緑を見下ろした。明らかに自分たちはこの場に浮いているように思う。
「そぐわねえなぁ」
「なに?」
虹平の独り言に緑が反応した。きょとんとした顔で見上げている。
「何でも」
「突っ立っとらんと座れば?」
「座れっかよ。仮にもスーツだぞ、これ」
「ああそやな。んーと、じゃあどっか座るとこ……」
お尻をはたきながら立ち上がった緑は辺りを見回す。
「なさそうだぞ。これからは恋人同士の時間になんじゃねぇの? 今日みたいな天気じゃ夜になると星が綺麗だろうしな」
気がなさそうに白けた口調で言った虹平の横で、まったく正反対な表情を見せた緑である。さっきまでの覇気のない瞳が、キラキラと輝いているのは気のせいか?
「緑?」
「星かぁ……今まで見てもなんも感じんかったけど、今やったらちゃうかな? 虹平もおるし」
晴れやかな表情で空を見上げている緑に、今度は虹平が難しい顔で首を傾げた。
“虹平もおるし”ってどういうことだ? 一緒に見る相手によって星の印象が変わってしまうものなのだろうか?
どういう意味か理解できずに、空を見上げたままの緑を見つめていると、彼が右腕をさすっていることに気づいた。何のことない自然な動作ではあるが、さするのが癖であるとか、たまたま痒みが起こっただけとか、肌寒く感じたからとか、そんな普段あり得る仕草とは少し違って見えた。
そう言えば車の中でも腕を押さえていたような気がする。虹平は何の気なしに訊ねてみた。
「どうかした? 腕」
「え?」
まさか不意をついたのだろうか。緑は傍目にもわかるほど身体を強張らせた。
「別になんでもない」
そう言うと虹平に背を向けて歩き出した。
「おい、ちょっと!」
虹平は大きく足を踏み出して、その肩を掴んだ。右肩を。
一瞬にして緑の表情が固まった。何の感情も映さなくなってしまったのだ。
「っ!?」
虹平は突如ガラリと気配を変えた緑から、すぐさま手を引っ込めた。
“暗殺者”が顔を出した――。
そう感じて虹平はゆっくりと後ずさる。緑の先ほどまでの柔和な雰囲気がなりを潜めてしまった。
一体何が起こったというのだろう。腕の話をしてから様子が変になり、肩に触れた途端、気配が変わった。
(まさか……)
思い当たりはしたが、しかし程度がどうであれ、人前では隠しているはずのもう一つの顔をこうも簡単に曝け出すだろうか? プロフェッショナルであるのに。
虹平は息苦しさを感じながら警戒心をあらわにして慎重に口火を切った。
「怪我、してるのか?」
すると、緑からみるみる尖った気配がなくなっていく。
虹平の問いに素直に頷いた緑は俯いたままこちらを向いた。さっきと打って変わって、落ち着かない様子で主人の顔色を窺う小犬みたいに幼くなってしまった。
虹平は内心で安堵しながらも自分から近づこうとはせず、相手の出方を待つことにした。
やがて緑が小さく口を開いた。
「ごめん……気ぃ抜いとった。ごめんな」
気まずそうに視線を逸らせていたかと思うと、上目遣いでこちらの反応を窺うように見る。虹平は溜息をついた。身体の力が抜けていくのがわかる。
しかしやっぱりこちらから近づく気にはなれず、すっと腕を伸ばし向こうから来させようと手招いた。
その仕草を見て、緑はちょっと拗ねたように口を尖らせて寄ってきた。
「なんや犬みたいな感じ、おれ」
(んな可愛いもんかよ。猛獣を手懐けようとしてる気分だっつうの)
虹平は内心で毒づいた。
あまりにも慣れ親しんだ態度で自然と隣にいるものだから、危うく忘れるところだった。いつ牙を剥くかわからない殺人鬼だということを。
しかも手負いとは迂闊だった。やはり簡単に気を許すのはまずい。
そう思うのに眼の前に立つ男は悄然としているから始末が悪い。
この場をどう収めようかと逡巡しているのが手に取るようにわかる。暗殺者の顔を覗かせてしまったのは、緑にとって思わぬ失態だったのだろう。
「よくないのか? それ」
「え?」
「仕事じゃない場で仕事の顔を出してしまったのはプロにあるまじきってことじゃねえのか? それが思わず出ちまうくらい大した怪我を負ってるってことだろ?」
言われて緑は、ぐっと言葉に詰まった。
「……あかんねんなぁ、おれ」
「何が? こういうことちょくちょくあんのか?」
虹平が問うたのは、怪我をすることではなく、普通の生活をしている場面でも殺気を表面化させてしまうことがあるのかということだ。
それが感情の変化によって出てしまうのであれば、プロとして致命的ではないだろうか?
暗殺者として訓練された中には、闇の中でただうずくまっていればいいだけの、仕事以外人前に出る必要が無い生活という徹底的に隔離された“兵器”として扱われる者もいるというが、緑の場合はきっと、普段は世間に紛れて周囲と同じように生活しているのだろうと思う。
誰かに決してもう一つの顔を見せない。そういうふうに訓練されているものと思っていた。
だから自然に柔和な笑顔を自分に向けてくるのだと。
訓練されたがために出来上がった二面性。そこに本人の心底沸きあがった感情が伴うことはないのだ。
わかっていたことながら、虹平は少し残念な気分になっていた。
自分も決して表を堂々と闊歩できる立場にいるとは言い難いが、仕事のために人格を形成しなおす必要はないし、その世界の中であれば人付き合いを制限することもない。頼ることも頼られることもある。相手と絆を深めることもできる。孤独でいる必要はないのだ。
だから、こいつが傍にいるのもいいんじゃないか。そう思い始めていただけに、やはりありえない想像だったとがっかりしてしまったのだ。
「戻るか。車が潮風で痛んじまうし」
俯いたまま黙ってしまった緑に、虹平は踵を返して歩き出した。
「え、帰るん?」
ぽそっと呟いた緑の口は不満そうにへの字になっている。
虹平は肩をすくめて口元を緩めた。
(なーんでこんな無防備なんだろうな)
「いいから来い。ちょっと移動する。こんなとこで突っ立ってしゃべってらんねえだろ?」
「……うん」
少しほっとした表情で、緑は虹平の後をついて行った。
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