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人魚の嘘
「人魚を見たことがあるんだ」
砂見は、杏露酒を頼んだはずが飲んでみたらブランデーだった、といった風情で岩城を見た。
琥珀色に澱んだ空気、雑多な匂いが混じった紫煙、お疲れ様ですの常套句と共に突き出される茶色い瓶口――典型的な会社の飲み会。あるいは、一カ月近く遅れた新年会。
そんな中で持ち出すにふさわしい話題ではない。岩城とてそれは理解していた。
だから、こっそりひっそり小さな声で。上司の歌声、先輩の説教、同僚の猥談に紛れ、ホクロで飾られた耳朶に届かなくても、まあしょうがないか、というぐらいの心地で。
だが彼女はしっかりとキャッチしてくれたようだった。柔らかそうな髪を耳にかけ、右隣に座っている岩城に突き出すように訊いてくる。
「うそ。それ、いつの話?」
「ガキの頃。実家の目の前にある海で」
「岩城君、こっちの人じゃないんだ」
砂見は驚いたような声を上げる。
「ああ、うん。H県出身。こっちの大学通ってそのまま就職したから」
「そうなんだ。全然知らなかった」
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