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知ってしまえば、もう知らなかった頃には戻れない。岩城はなんとはなしに途方に暮れた。
藍色の水底にも似た1LDK、まどろみながら、夢ともうつつともとれぬ会話が紡がれる。
「ねえ。前に言ってた人魚の話」
「……うん?」
「本当に、私に、似ていた?」
「似てたよ。どっちも」
「どっちも? 二匹もいたの?」
「……うん」
「うん?」
「……うん」
「もお。実は、全部、ウソなんじゃない?」
「どうして」
「なんとなく。できすぎてると思って」
「……うん、嘘かも。砂見と話すキッカケが欲しかっただけだよ」
――罪のない嘘だろう?
そう囁いて、岩城はざぶりと砂見にもぐる。
一見、躱そうとする女の仕草は、実は男を煽るに過ぎない。捕らえようとする腕、押し返そうとする脚は、そのうちに藻のように絡み合い、溶け合って、二人の境界を無くす。
寄せては返す甘やかな波、引いては満ちる生温い潮、纏わり揺らぐ濡れそぼったひれ。
ひらり、ゆらり。頬を撫でるようにかすめゆくのは、髪か、尾ひれか、泡沫か。
波の音はまだまだ続く。
「なんで確認せずに納品したんだ!」
ざわついていたフロアが、凪のごとく静まり返った。
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