《 六 》

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 彼がベランダへ出ると、隣人が夜空を仰いでいた。星を読んでいるのだと彼女は言うが、この日は曇りぼやけた月光が空に明かりを滲ませているだけであった。  じっと見つめ続ける彼女に彼は声を掛けずに煙草の火を灯す。ゆっくりと飲みながら垣間見た彼女の瞳が憂いた翳りを語っていた。 「凶星を見ているよう」  呟いた彼の方を彼女は向かなかった。代わりに瞳を大きく開き翳りを打ち消した。そうしてゆっくりと瞬きをしてから彼女は言った。 「曇り空に星は見えないわ。空を眺めているだけ」  何処へ居ても空は変わらない。普遍の象徴として彼女の胸に刻み込まれている。時を移ろい逝く自分とは違う普遍に安堵する。昇った太陽が鮮やかな青をもたらし、昇った月が深く遠い青をもたらす。雲が覆い雨をもたらし、そうして明けた空は青いままだ。朝焼けと夕焼け、そのふた時に色を変える以外、空は青であることを決して忘れない。きっと迷うことなどしない。 「先生は迷うことってある?」 「常に迷っているよ、俺は」  彼を一瞥してから身を翻し、彼女は手摺に凭れながら取り出した煙草を咥えた。 「火を貸してほしいの」 「どうぞ」  互いに少し身を乗り出し、火を分かち合ったその時、彼も彼女も常に遠ざける薄い壁の真ん中に重なった頭が在る。触れることの出来る距離は作ろうと思えば直ぐに生み出せることをそれは証明している。  離れる間際に覗いた彼の瞳はひと時の安寧を彼女に与えた。見えない壁しかないこの時間は近過ぎず遠過ぎず、彼の美しさを見つめるのに丁度良い。美しい彼を焦がれて、彼が持ち彼女に与えてくる綺麗なモノの数々のお返しに、自分の持てる美しいモノを彼へ渡す。彼が美しいと訴えるモノしか彼女は与えない。それ以上の発想は生まない。 「ねえ、学生。教えてほしいことがあるんだが」 「わたしが知っていることなら」  淡々と交わされる会話の中に、彼はいつも彼女の本質を見つめる。美しい彼女の最も美しい部分をひた探す。収まらない衝動が美しさを覚える為の感触として眼と耳をさらさらと刺激するから彼は追求を止まない。 「愛するってどういうこと?」 「捧げることだわ」 「なにを?」 「持てる全て」  自身の持てる美しい部分の全てだけと言いたくても、彼女は言えない。彼女は彼へ自身のその全てを捧ぐことを願っているが、そこにはひどく困難が伴っている。  美しくない自分を持て余す。どう扱ったら良いのかわからなくなる。美しい自分を彼が見つめれば、代わりに美しくない自分は自身で見つめ続ける必要がある。今まで持ち得なかった感情と共に、その感触を痛い程に感じながら見つめ続けることは苦しい。そして捨てられない限り、きっとそうしていくしかない。  一層全てを捧げてしまえたら楽になれるだろうか。到底無理なことだ。不可能に近い。 「持てる全てとは自身を捧ぐことに等しい」  彼がそう返すと、彼女は顔を強張らせた。 「学生?」  不審と不安を同時に覚えた彼は咄嗟に越えずにいた壁をあっさりと越えた。腕を伸ばし、余裕で届く距離にある彼女の腕を掴んだ。  所詮は数十センチ。今が越えるべき時であるのかはわからない。  距離を縮めた彼女の顔は美しく瞠目を浮かべて儚く闇に溶けていきそうで、彼は息を飲み込んだ。
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