《 六 》

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 隣からことりと音がして、彼が部屋に居ることを彼女は悟った。ずっと居たのか、今部屋に来たばかりなのか。自分の声は届いていたのか、届いていなかったのか。  胸元に手を当ててぎゅうっと握りしめて、それから崩れ落ちた。 「先生……好き……」  あの美しい人への愛は言葉にしてはいけないと誓っていたのにと、彼女ははっとした。シーツを握りしめてベッドに顔を埋めて啜り泣いた。  言葉にしてしまったら、口に出してしまったら、きっと何かが壊れていく。壊れ出したら止まらないに違いない。  何かを創り出すよりも壊す方が到底簡単だ。しかし彼女は自分を壊すことを恐れている。本当に壊すことは簡単なのだろうか。  彼への愛を口に出してみたら、枯れていると思っていた泪がぽろぽろと零れた。こんなにも簡単に泪は零れるものなのか。こんなにも簡単に泪を流した自分はもう壊れかけているのだろうか。  この部屋の壁は本当に薄いと、彼は溜息を吐いた。  彼女が自分に向かってあの美しい声を発しているかと思うと心が狂おしく掻き立てられる。美しい彼女がどんな姿でその美しい声を鳴かせているのか知りたい。  いつかその姿を見せてくれるだろうか。  今のままではきっと平行線だろう。いつかは来ない。こうしているうちはきっと、あの美しい声以上のものを彼女がくれることはないだろうと深く息を吐くも、こうしているしか彼は方法を見出さない。  満たしきれない筈の現状を彼はそれなりに満たして受け入れているのだ。無意識にこの歪みは実に美しいと。  ベランダ越しの逢瀬、壁越しの囁き、彼女の裸体を知らない彼へまるで身を捧ぐように彼女は声を漏らす。  しかし彼女は決して懇願しない。それは彼も同じだった。求めることが怖い。  彼女はどんな時も美しいと断定しながら、彼は恐れていた。求め過ぎてしまうことは怖い。自身の美を追求するだけでは済まなくなる。  たった数十センチを越えた先に何があるというのか。越えてしまえばいいと思いながら、越えることを恐れて他の女を抱く。彼女の代わりにはなれない女を抱く。  どんな造形美を持てど、彼の美しいものには敵わない。  小さな呟く声が聴こえた気がした。しかし、彼女は求めて来ない。求めて来ない相手に愛を告げるのは憚られる。遣る瀬無く感じる時があったとしてもこのままで居る幸せを選択するしか術が無い。  自分の持つ選択肢の少なさに彼は嘆いた。なんて臆病で情け無い男であることか。
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