《 七 》

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《 七 》

 もしかしたら彼は最初からこの壁など直ぐに壊せたのではなかろうか。この薄い壁を壊してその向こうへ辿り着く自分を彼は待っていたのかもしれない。今だって腕を掴みながら待っているかもしれない。けれども、どんなにそれが薄かろうと壊すことは叶わない、そう彼女は思っていた。  彼はもう知っていた。このベランダで彼女と自分を隔てる数十センチは高が知れている。  彼女へ手を伸ばすことが今まで叶わなかったのは、自身に対する幻滅を覚えたくなかったからかもしれない。そんなことを今この瞬間彼は知った。彼女に触れたらどうなるのか、それを知るのは怖かった。求めるモノと求めた先にあるモノの間で自分にがっかりするかもしれない。そうして彼女の求める美しい自分が触れた先に居るとは限らない。  触れてしまえば、自身の手に拠って美しい彼女を少なからず壊す。壊した彼女はそれでもきっと美しい。触れれば少なからず彼女の手に拠って彼は壊れる。彼女の求める美しい自身で居ることが出来るかどうかはわからない。  触れてしまった今になってそんなことに気づく。  ふたりは微動だにしなかった。葛藤の渦の中で何をどう体現すれば良いのかわからない。  彼女が彼を美しいと感じて止まなくなって随分と経つ。初めて言葉を交わした時から彼は常に美しく彼女には映った。その感覚はいつしか形を変えた。  彼が彼女を美しいと感じて止まない日々が始まってから長いこと過ぎた。初めて言葉を交わした時から美しく在り続ける彼女を愛する。  一度だけ触れたぬくもりは覚えてしまったが最後、互いをまるで狂わせ続ける。  彼の仕事に彼女が関わり始めてから、もう随分経った。彼女の知識が登場する彼の紡ぐ美しい物語は人気を博し、シリーズとして続刊されている。仕事を共にする時間は続く。打ち合わせへ向かう時にエントランスで鉢あえば共に出かけ、共に帰路に着くことも山ほどある。  ベランダ越しの逢瀬ではない時間の隙間は幾らでも生まれていたのに、互いに触れる機会を二人は求めずにきた。  あれから直ぐにエレベーターのメンテナンスが行われた。ご機嫌なエレベーターの中で二人が触れ合う機会は訪れない。  交わす言葉に壁は存在しないのに、寝室を区切るあの壁の存在が邪魔をし続ける。こんなにも懇願するように声を届け続けているのに、触れることを只管に恐れた。こんなにも求めているのに、互いの求めるモノがすれ違うことを恐れた。そうして彼が恐れるモノに対して、彼女の恐れるモノは悪無限に彼女の前に聳える。越えることは叶わないと知らしめるように彼女の前にはだかる。
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