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仕事の合間、仕事終わりに、彼はベランダで煙草を飲む。そんなある日、隣のベランダで読むように空を見つめる隣人を見た。彼女は視線を外すと手に持っていた煙草を一本取り出して咥え、火を着けた。まるで似合わないと彼は思った。そのちぐはぐさは彼の好む美しいのひとつでもあった。
人の気配に敏感な彼女の目がすぐ隣のベランダにいる隣人の彼を捉えた。
彼は彼女の小さな顔にちょうど良い円らな瞳へ「こんばんは」と声をかけた。
彼と彼女が深夜ベランダへ出る時間帯はいつも重なる。やがて互いに互いが居ないと虚しさを覚えるようになった。
雑談を交わしているうちに、学生であると言った彼女は随分と聡明だと彼は感銘を抱いた。
書くことを生業としている彼は彼女の言葉選びの美しさに時々目眩を覚えそうになる。
「先生は書くことがお仕事と前に言っていた。わたし、綺麗な先生の紡ぐ言葉にとても興味があるの」
彼女が言った。彼は自分は冴えない作家であると彼女に話していた。
「学生のような人間が俺の作品を読んでも面白さは感じないかもしれないよ」
彼の持つ言葉とは違う彼女の言葉の美しさに、彼は自嘲した。
「そんなこと、読んでみなければわからない。先生はとても美しいから」
美しいと彼女は彼を形容したが、彼はよれよれのトレーナーにくたくたなスウェットを身につけて、長めの髪はぼさぼさだった。彼女と顔を合わす時、彼はいつもそんな体だった。
「愛読書は?」
「咲き過ぎた蕾」
それは彼の代表作のひとつである。
「あれは、本当に美しい?」
彼は美しいものをひどく好むが、自分の美しいと他人の美しいが常に被るとは限らないことを知っている。
「あれほど美しいものを、わたしは知らないわ」
愛おしそうな彼女の言葉に彼は目を見開いた。
「あれは先生の言う美しいものと同じね。だからわたし、こうして先生とお話した後、寝なくてはいけない時間になると、必ず一番好きな一文を一読して眠るの」
「そこまであれは美しく学生にも映ってくれるのか」
その作品が彼の著作であることに気付いた彼女は瞠目した後に言った。
「ええ。美しい。楽しみだわ」
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