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《 二 》
美しいものを愛する彼は美しいものに夢中に過ごした末に、生活能力が著しく乏しかった。仕事の筆が進み出せば、寝る食うなど忘れて書き続け、眠いことも空腹も覚えられない。美しいものを捉えればそれに夢中になり、やはり生活に必要なモノを色々と忘れる。
打ち合わせに向かう日は、しっかりと清潔感の漂う人受けする格好へと自分を変貌させる。ぱりっとしたシャツを纏い、流行りのスマートなスラックスと綺麗に磨かれた靴、長めの髪は自分にも他人にも邪魔にならないようにしっかりと整えられている。
「あら、先生。お出かけ? お仕事かしら?」
気付かれないかと彼は思ったが、マンションのエントランスで彼女は彼の顔を見るなり言った。
「そう、打ち合わせ。学生は学校?」
「わたしもお仕事」
「バイト?」
「本業と言ってしまっ方が良いわ」
「学生ではなく?」
「ええ、そう。先生はどちらまで?」
「目的地が近くなら途中まで送るよ」
彼の目的地と彼女の目的地は同じだった。パーキングに車を止めて、ふたりはたわいない会話を繰り広げながらエレベーターに乗り込み、同じ階で降り、行き着いた会議室は同じ部屋だった。
「え?」
「ふふ」
「どういうこと?」
ドアの前で立ち止まっていた2人に、後から現れた彼の作品の編集担当者が声をかけた。
「お二人とも、どうしてそんなところに?」
会議室の鍵は開けてあったはずで、不思議そうに担当者が尋ねると、彼女が言った。
「今、着いて入るところですよ」
この日、彼は新しい作品に携わってくれる人間との顔合わせであった。
彼女がその相手だと気付いた彼はひどく驚いた。
「確かにこちらが本業と言うべきかもしれないね」
驚きながら彼は言った。
彼女は素性こそ公にはしていないが、それなりに名の知れた風水師であった。担当者は新しい彼の作品に登場する、主人公となる呪術師の女性が使う方位学などの原案を彼女に依頼しており、これからしばらくの間、彼と彼女はパートナーとなることになる。
美しい彼女が、少なくとも彼の中では常に美しくある自分の言葉の数々で編み出す物語に携わる。彼の胸を昂らせた。
打ち合わせの間、彼女は終始、そのつぶらな瞳を輝かせていた。仕事が好きなのだろうと彼は思ったが、その理由は、彼女の愛する作家の作品に、それも常々美しく感じる隣人の言葉に、自分が携われる喜びにあった。
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