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その日、学生よりも本分である彼女の持つ仕事はその打ち合わせだけであった。彼も他に諸用はなく、行きと同じく共に帰路に着いた。
エレベーターに乗り込むと、彼はしっかりと整えてあった髪をぼさぼさに崩しながら言った。
「ねえ、学生よ。教えてくれても良かったんじゃない?」
「楽しみが減る。わたしの」
「それはそうかもそれない。俺はおかげで楽しみが増えた」
お互いに名前くらい知っているのに、彼は彼女を学生と呼び続けて止まなく、彼女も彼の名前を呼ばずに先生と呼び続ける。
がたんと音がして突然エレベーターが止まった。突然のことに驚いた彼女がよろめき、彼は小さな肩を抱き留めた。
逢瀬はベランダだけのふたりは、初めて相手に触れた。
彼女が退こうとしなければ、彼も彼女を抱き留めた腕を解こうとしなかった。
「ねえ、学生。このエレベーター、どうして修理しないんだろうね」
調子の悪いこのエレベーターは気まぐれで時々止まる。
「わたしたちのためじゃないかしら」
ベランダ越しの自分たちは近いけれども遠い。常々そう思っていた彼女は、エレベーターが調子悪くいる理由をそう称した。
すぐにエレベーターは動き出す。
「ねえ、学生。次、うちの階。もう誰も乗って来ない」
変わった形をしている彼らが住むマンションは、その階にある部屋はふたつだけで、互いに隣人はすぐ側にいる相手だけだ。
この調子の悪いエレベーターがいつか本当に故障して、止まって閉じ込められたらどうしようなどという考えは、少なくともその時のふたりにはなかった。
初めて触れた温もりを、ほんの少しの間、互いに味わっていた。
すぐに着いてドアが開くまで、ふたりはそのままだった。
「先生、体温高いのね」
そう言った彼女の口調はうっとりとしていて、彼は強く抱きしめたくなった。
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