(二)

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 益田商店に着くと「まいど!」と、大声で怒鳴るように叫んだ。  間口は七、八メートルほどで奥行きがしっかりある店内で、入り口近くには誰も居ないのが常だ。いつもは事務室でふんぞり返っている部長が、今日は陳列してある商品の確認をしていた。彼の声に気付くといつもの仏頂面で、あごをしゃくり上げて二階へとの指示が出た。  その二階には岩田が耳打ちした、あの本田という女性がいる。「失礼しまーす」と声をかけて、事務室横の階段を上がる。階段途中で少し耳たぶを赤くした彼が、また「まいど!」と声を張り上げた。  二度も同じ言葉を発して何をくだらぬことをと思いつつも、いつもそうだ。要するに、まいど以外の気の利いた言葉が出てこないのだ。主任からは、お世辞の一つも言ってこいと言われてはいるが、どうにも思い付かない。まいどと言う言葉すら、先輩社員の助言で覚えた言葉なのだ。  当初は蚊の泣くような声で「こんにちわ」と入った。それはそれで初々しいと当初は好感を持たれていたけれども、ふた月も経つと、営業に「まだ慣れないみたいだな」と笑われてしまった。    先日のこと「配達の折に注文の一つも貰って来い」と言われた。(ジョーダンじゃない! その分の給料はもらってないぞ)と心内で毒付きながらも「はあ…」と生返事を返してしまった。(情けない)と己を責めるが、先々月に買ったコンポーネントステレオの月賦支払いがあり、今は辞められない。今朝の勢いは、すぐに溶けてしまうアイスキャンディーのようなものだ。  いつもならば「ごくろうさま!」と返ってくるはずが、今日に限って何もない。鎌首をもたげて覗き込んだ。一望できる仕切りのない作業場には、誰も居ない。誰かしらが必ず居るのだが、どうしたことか今日は無人だった。  部屋はだだっ広い空間で、壁には諸々の治具が掛けられている。ステンレス製の定規が長短あわせて五種類があり、ハサミも大きな裁ち鋏から小鋏まで七種類がある。製図用の横幅のある平机には三種類のアイロンが置いてあり、使い道の分からぬ小物治具が何種類かある。  そして階段を上がりきった角に、彼の天敵であるパターンやらハトロン紙が置いてある。それらを車に積み込む折に、無造作に放り込んだところを主任に見咎められた。破れやすい紙類の扱いについては、特に扱いを注意するようにと、常々言われていた。それを怠ったと叱られたのだ。
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