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(1)患者エメ・A
一九三〇年代のパリ、警視庁付属特別病院。
「資料は読んだかね」
クロード博士は、この新しく赴任した若い研修医と並んで歩きながら尋ねる。
「事件の顛末と経歴については・・・。詳しい会話記録と先生の所見がなかったのは何か意図があってのことですか」
青年には知性に裏付けられた自信がみなぎっていた。
初老の博士の口元は、白髪混じりの髭に隠れてみえない。だが目元の皺は微笑んでいた。
「先入観なしの君の所見が知りたいのだよ」
博士はこの研修医を信頼していた。哲学から精神医学に進み、大胆な知見を次々と発表する期待の逸材。
「判りました。では患者に質問してもよろしいのですね」
「もちろんだとも」
博士は立ちどまる。
「ラカン君。ここが診察室だ」
重い扉が開かれた。窓はなく机と椅子だけの殺風景な個室。
青年ラカンは扉側に座る。それは意図があってのことだ。患者は部屋の奥に座ることにより客ではなく主人となる。クロード博士はその配置に一瞬迷うが、やがて傍観者として側面の壁に椅子を移動し腰を降ろした。
扉がノックされる。振り返ると患者であるエメ・Aが看護師と共に現れた。
彼女は何かに戸惑っている。ラカンはそのぎこちない所作を見逃さない。彼女は私と云う新参者をどのように捉えるのだろう。
クロード博士が優しく語りかけた。
「今日はこちらの若い医師が診察します。もちろん私も立ちあいますよ」
「こんにちは、ラカンと申します」
彼は患者を観察する。
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