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エメ・A。怯えてはいない。逆に彼をまじまじと見つめる瞳は美しくもあった。年齢は記録によると三十一歳。長い髪を後ろに束ねている。痩せ型。胸元が開いた収監着から形のよい鎖骨が見えた。
「・・・はじめまして。こんにちは」
彼女はよどみなく答えた。そしてためらうことなく、奥の椅子に座る。おどおどしたところもなく環境変化にも動じてはいない。
患者エメ・Aは2年前に世間を騒がす事件を起こしていた。高名な女優Zを劇場の楽屋口で待ち伏せし、現れた女優に「あなたはZですか」と確認する。Zが「そうだ」と応えると持参したナイフで斬りかかる。女優はナイフを掴んだため指の腱を切る重傷を負う。加害者であるエメはその場で警備員に取り押さえられた。
警察が調べたところ、彼女は若い頃精神科に入院していた。また被害者Zとは直接の面識はなかった。精神鑑定の結果、彼女はこの病院に送り込まれる。
なぜ、彼女は見ず知らずの女優Zを襲ったのか。
「クロード先生と同じ質問になるかもしれませんが、よろしくお願いいたします」
彼女は微笑む。社交性、情緒には何ら問題がないかのように思える。
先ずは、外堀から埋めて行こう。ラカンは尋ねる。
「エメさんは映画やお芝居をお好きですか」
彼女は思い出す。
「長らく住んでいたRは田舎で、映画館もありませんでした。お芝居は、劇団が地元に来たときにラシーヌを拝見しました。学生時代のことです」
「その時の女優さんは覚えておいでですか」
彼女はラカンから目を逸らさない。
〈あなたはわたしを見つめている。鋭い視線を向けるのはなぜ? なにを見つけようとしているの。そう・・・あなたはわたしにはいりたいのね。わたしはそれを拒むことが出来ない。あなたはわたしの心のなかにはいり、さらけだそうとしている〉
ラカンは、彼女の眼差しを考える。それは彼に向けられており、逸らされることはない。彼は観察を続けた。エメは落ち着いており、散漫なところがない。分類としては執着タイプだろうか。
「Zさんのことをお知りになりたいのですね」
彼女はこともなげに言う。
図星だとラカンは苦笑する。彼女の方が要点を心得ているかのようだ。おそらく普段から聡明なのだろう。ではどこに歪みがあるのか。
「クロード博士にもお話しましたが、最初にZの名前を聞いたのは、職場の同僚たちが話題にしていたからです」
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