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記録によると、エメは郊外のR市に住み、大企業の会計として働いていた。最初の発症は結婚後に起きる。近隣の女性たちが彼女の悪口を言っていると云う妄想を抱き、住人たちに暴力的な抗議をした。そのことにより一年間地元の施設に収監される。退院後、彼女はRには住まず、本社勤務を願い出て単身パリに赴任する。夫とは離婚せず、週末に逢う生活を送っていた。今も夫は週末毎にこの病院を訪れている。
エメは続けた。
「休憩時間でした。職場の殿方がZさんの映画と舞台について喋っていたのです。皆その演技をほめていました。ただ、ひとりだけ彼女を非難していました」
「それはどのような内容ですか」
「彼によるとZの私生活はふしだらで、女優でなければ娼婦になっていただろう、と云うものです」
「だいぶん憤慨しているようですね」
女優Zのスキャンダルはパリっ児の間で有名であった。彼女の子供は、夫以外の男性が父親だと噂されていた。
「ええ、その憤慨していた方は厳格な方でしたから」
「あなたはどう思われました」
「Zの名前を、その時初めて知ったのです。その時はお顔も知りませんでしたから・・・」
アンリ博士が助け舟を出す。
「偶然見た映画にZが出演していたのですよね」
エメはこのときラカンから目を逸らす。短い空白。ラカンは特別な意味を感じる。しかし彼女の視線は再びラカンへと向けられた。
〈わたしを見つめている。あなたはわたしの何が知りたいの。あなたはわたしを裸にする。その眼差し。わたしは隠すことが出来ない。あなたはわたしの裸体をまじまじと見ている〉
「そうなんです。たまたま仕事帰りに入った映画館で彼女を観ました」
「何という映画か覚えていますか」
「たしか、何かの奥方とかいう題名でした」
「〈クレーヴの奥方〉ではないですか?」
「そうだと思います」
ラカンは、映画には詳しくないが文芸一般には通じていた。おそらく十七世紀末の恋愛小説の映画化だろう。
主人公シャルトル嬢は、不本意ながらクレーヴ公と結婚する。やがて運命の人ヌール公が現れ真実の愛に気付く。人妻ゆえのさまざまな行き違いがあり、やがて夫クレーヴ公が死ぬ。ヌール公は彼女に求婚するが、彼女は愛していなかった夫に貞節を誓い修道院にはいる。
貞淑な主人公を、スキャンダルで有名な女優Zが演じるとは何とも皮肉なキャスティングだ。
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