(1)患者エメ・A

3/33
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/33ページ
 記録によると、エメは郊外のR市に住み、大企業の会計として働いていた。最初の発症は結婚後に起きる。近隣の女性たちが彼女の悪口を言っていると云う妄想を抱き、住人たちに暴力的な抗議をした。そのことにより一年間地元の施設に収監される。退院後、彼女はRには住まず、本社勤務を願い出て単身パリに赴任する。夫とは離婚せず、週末に逢う生活を送っていた。今も夫は週末毎にこの病院を訪れている。  エメは続けた。 「休憩時間でした。職場の殿方がZさんの映画と舞台について喋っていたのです。皆その演技をほめていました。ただ、ひとりだけ彼女を非難していました」 「それはどのような内容ですか」 「彼によるとZの私生活はふしだらで、女優でなければ娼婦になっていただろう、と云うものです」 「だいぶん憤慨しているようですね」  女優Zのスキャンダルはパリっ児の間で有名であった。彼女の子供は、夫以外の男性が父親だと噂されていた。 「ええ、その憤慨していた方は厳格な方でしたから」 「あなたはどう思われました」 「Zの名前を、その時初めて知ったのです。その時はお顔も知りませんでしたから・・・」  アンリ博士が助け舟を出す。 「偶然見た映画にZが出演していたのですよね」  エメはこのときラカンから目を逸らす。短い空白。ラカンは特別な意味を感じる。しかし彼女の視線は再びラカンへと向けられた。 〈わたしを見つめている。あなたはわたしの何が知りたいの。あなたはわたしを裸にする。その眼差し。わたしは隠すことが出来ない。あなたはわたしの裸体をまじまじと見ている〉 「そうなんです。たまたま仕事帰りに入った映画館で彼女を観ました」 「何という映画か覚えていますか」 「たしか、何かの奥方とかいう題名でした」 「〈クレーヴの奥方〉ではないですか?」 「そうだと思います」  ラカンは、映画には詳しくないが文芸一般には通じていた。おそらく十七世紀末の恋愛小説の映画化だろう。  主人公シャルトル嬢は、不本意ながらクレーヴ公と結婚する。やがて運命の人ヌール公が現れ真実の愛に気付く。人妻ゆえのさまざまな行き違いがあり、やがて夫クレーヴ公が死ぬ。ヌール公は彼女に求婚するが、彼女は愛していなかった夫に貞節を誓い修道院にはいる。  貞淑な主人公を、スキャンダルで有名な女優Zが演じるとは何とも皮肉なキャスティングだ。
/33ページ

最初のコメントを投稿しよう!