賢淵のヌシ

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賢淵のヌシ

「うわあ! 芋けんぴ! それも塩味のやつ!」 「夏織くん、ここの芋けんぴ好きだろう。四万十川に行ったついでに買ってきたんだ」 「遠近(とおちか)さん、ありがとう!!」  療養から帰ってきたばかりの河童の遠近さんは、私がお礼を言うと、被っていたハットを外して、にこりと微笑んだ。先日見たときにはヒビが入っていた頭の皿は、すっかり綺麗に治っている。 「おい、夏織。今から飲むから、ぐい呑持ってこい!」 「ええええ、こんな真っ昼間から!?」 「しゃあねえだろ、こんな美味そうな酒持ってこられたら、我慢できねえ」  私は大きくため息を吐くと、腰を上げた。  遠近さんの高知土産は、芋けんぴだけでなかった。飲酒大国なんて言われている高知には、やはり美味しいお酒も多い。遠近さんは、酒好きな東雲さんのためにと、オススメの地酒を買い込んで来ていたのだ。 「……仕方ないなあ。でも、あんまり飲みすぎないでよ!?」 「はっはっは。夏織くん、すまないな。あ、僕のぶんもくれる?」 「わかってますよ。本をつまみに酒を飲む――なんて言い出すんでしょう?」 「流石、夏織くん。慣れたものだね」  遠近さんはそう言うと、ぱちりと片目を瞑った。  ……私には、そういうのは効きませんよ。  若干、うんざりしながら苦笑する。すると、顔を引き攣らせた東雲さんが、がしりと遠近さんの頭を掴んだ。 「夏織になに色目使ってやがる。皿ァ、割られたいか。河童」 「おやまあ。相変わらずの親馬鹿だね。養親がこれでは、何処にも嫁にいけないんじゃないか? 夏織くんも苦労する」 「そそそ、それとこれとは違うだろ。ほら、いいから飲むぞ。話はそれからだ!」  東雲さんは、苦し紛れに勢いよく太ももを叩くと、私が用意したぐい呑に酒を注いだ。遠近さんは朗らかに笑いながら、鞄から何冊かの本を取り出して、ちゃぶ台の上に並べている。  ――こりゃあ、長くなるしうるさくなるぞ。  そう思った私は、店の前に出ると、看板の上に「本日休業」と書いた紙を貼り付けた。  ふたりは酒が入ると、来る客来る客全員に絡み出し、意見を求める迷惑な酔っぱらいに豹変する。他のお客さんのためにも、このふたりが飲み始めたときは、店は閉めることにしているのだ。 「夏織、客か?」  するとそこに、水明がやって来た。  二階にいた彼は、階下が賑やかなことに気が付いて降りてきたらしい。  私は肩を竦めると、今日は店を閉めることを伝えた。水明は、既に激しく意見を交わし合っているふたりをちらと横目で見ると、僅かに眉を顰めた。 「あまり、近づかない方がいいんだろうな」 「そうそう。楽しいことにはならないわよ。……そうだ、一緒に出かけようか」 「どこへだ?」 「唐傘の兄さんのところ。この間、風呂敷を借りたでしょう。返しに行かなくちゃ。それに、君の探しているあやかしの情報も入って来ているかも」  私がそう言うと、水明はこくりと頷いて、支度をしてくると二階に戻って行った。  戻ってきた水明の腰には、今日も空の試薬瓶が収まったホルダーが着けられている。水明は軽くその瓶を撫でると、「行くか」と店から一歩踏み出した。 「こら、待ちなさい。あたしも行くわ!」  すると、にゃあさんも酔っ払いから逃げるように駆け出した。  私も、その後に続いて店を出ると、待っていましたとばかりに幻光蝶が集まって来た。私は、指先で蝶を弄び、嬉しそうに指に纏わり付く様を眺める。  ――今日も、夏の隠世の町は蒸し暑く、じわりと汗が滲んでくるほどだ。  けれども、頭上は晴れてはいるものの、東の方角から黒い雲がこちらに向かってやってくるのが見える。  ……雨が降るかもしれないなあ。  なるべく早く帰ろう。そう思いつつも、私はいつもと変わらぬ隠世の町に繰り出した。  *  唐傘の兄さんの家に到着すると、雨が降る前にと、軒先に干していた傘を回収しているところだった。 「すまぬなあ、手伝ってもらって」 「いいのいいの。それに、完成前に雨に濡れたら台無しだもの。こんなに綺麗なのに、もったいないわ」 「夏織は、いつも嬉しい言葉をくれるな。ささ、茶でも飲んでいけ」  一通り傘を仕舞い終えて、ありがたくお茶を戴く。ひんやりと冷えた麦茶は、暑さで火照った体を程よく冷やしてくれる。香ばしさも相まって、なんとも夏らしい味だ。  すると、お茶を出し終わった唐傘の兄さんは、なんとも申し訳なさそうに肩を落とした。 「茶菓子の用意がなくてすまんな」 「兄さん、気を遣わないでってば。麦茶、美味しいよ。ありがとう」 「ううむ……」  それでも納得がいかないのか、唐傘の兄さんはひとり唸っている。  すると、何かを思い出したのか、唐傘の兄さんはぽんと手を叩いた。 「そうだそうだ。忘れるところであった。そこの白いの。お主の探していたあやかしの噂を聞いた」 「……え?」  すると、水明は一瞬ぽかんとすると、次の瞬間には唐傘の兄さんに詰め寄った。 「――何処だ!! あいつは、何処にいる!!」 「ぐ、慌てるな。白いの。ええい、首が絞まる」  唐傘の兄さんは、襟を鷲掴みしている水明の手を放させると、大きくため息を吐いた。そして、その「噂」とやらを教えてくれた。 「最近、裏路地で残飯を漁る、犬のようなあやかしが目撃されておるのだそうだ。そいつは黒い毛に覆われていて、やたら長い胴をしているという。酷く痩せ細っていて、声を掛けると逃げていくのだそうだ。……この時期は、山から降りてきたおのぼり(・・・・)が多いだろう? だから、遊びすぎて金を使い果たした阿呆かとも思ったのだが」 「……」  水明は、唐傘の兄さんの話を聞いて、何やらじっと考え込んでいるようだった。 「ねえ、兄さん。そのあやかしは、どこで見つかったの?」 「ああ、町の外れだな。針地獄の入り口の辺りだ」 「なるほど」  私は、唐傘の兄さんに御礼を言うと、がしりと水明の腕を掴んだ。  水明は勢いよく顔を上げると、私をじっと見つめた。その瞳は、動揺しているのか大きく揺れていて、僅かに下がった眉は、とても不安そうに見えた。  そんな水明に私はにこりと微笑むと、その腕を思い切り引っ張って立ち上がらせた。 「そのあやかしを探して、隠世にまで来たんでしょ。何はともあれ、行動を起こそう。行こう!!」 「……!!」  水明は薄茶色の瞳を、何度か瞬かせると、大きく頷いた。  そうして私たちは、唐傘の兄さんの家から飛び出したのだった。  * 「はぐれるんじゃないよ。この辺りは、気性の荒いあやかしが大勢住んでいるんだから」 「うん。わかった」  にゃあさんの後をついて、町の外れ針地獄の入り口の近く――襤褸の掘っ立て小屋が並ぶ区域を進む。この辺りは、中心街に居を構えることが出来ないあやかしたちの棲み家だ。勿論、そんな場所だから、治安は決して良くない。けれど、にゃあさんは広く顔を知られている。人相の悪い、恐ろしげなあやかしも、にゃあさんを見つけるなり、さっと隠れてしまうから流石だ。 「――クロ! クロ、どこだ……!!」  水明は、歩きながら辺り構わず声を張り上げて叫んでいる。  水明の相棒は、「クロ」と言うらしい。相変わらず、表情は動いていないように見えるけれど、普段あまり声を張り上げない水明が、ここまで必死になっている様子を見るに、かなり大切な相手なのだと解る。  私は辺りをキョロキョロと見回すと、視界の隅に知った顔を見つけて駆け寄った。 「ねねさん!」 「あらあ、夏織ちゃん。久しぶりやなあ、どないしたん?」  私が声を掛けたのは、シンプルな浅葱色の小袖を来た御婦人だ。帯を背中側でなく、お腹側で結ぶ前帯にしているその人は、すっぽりと頭巾を被っている。そして、何よりも特徴的なのは、その人の顔には目も鼻もないことだ。おしろいを塗った顔はのっぺりとしている。 「ねねさん、私……あやかしを探しているの。ええと、犬みたいなんだけど、胴が長くて、黒くて赤い斑があるの! 知らない?」 「あらあ、最近ここいらで噂になっていたあやかしやね。それなら……」  ねねさんは、のっぺりした顔に唯一ある口で、にたりと笑う。すると、お歯黒で染まった歯が露わになった。 「つい先ごろ、向こうの通りに向かって、ふらふら歩いているのを見たわあ。行ってみ」 「……!! ありがとう!!」  私は「お歯黒べったり」のあやかしである、ねねさんに勢いよく頭を下げると、水明の手を掴んで走り出した。にゃあさんは、すかさず私の前に走り出て、先導してくれている。そんな私たちに、ねねさんは声を掛けてくれた。 「皆に知らせておくわ。行く先々で進む方向に迷ったら、そこいらにいるあやかしを捕まえて聞き!!」 「ねねさん、何から何までありがとうー!」 「可愛い夏織ちゃんのためやもの、当たり前よ。きばりや!」  私は後方に向かって大きく手を振ると、前を向いて走り抜けた。もうそろそろ、夕飯時なのだろう。あちこち、煮炊きのための煙が立ち昇っている。私たちは、見かけたあやかしに片っ端から声を掛けて回った。そして、目撃情報を辿ってたどり着いた先――そこは、行き止まりだった。  ――ぽつぽつと、雨が降り出している。  夏特有の生ぬるい雨が体を濡らす。けれども、ここにいる誰もが濡れるのを気にしている素振りはない。目の前に広がる光景が、あまりに衝撃的でそれどころではなかったのだ。  普段は誰も近寄らない、空き家の間の路地裏。  街灯の光もここまでは届かず、濃厚な闇が停滞しているその場所――そこは、ぬらりと紅く濡れていた。 「……ああ!!」  水明はその現場の惨状を目の当たりにした瞬間、顔を青ざめさせて、その場に膝を着いた。  鼻をつく、濃厚な鉄錆のような匂い。  随分と暴れたらしい。壁にも地面にも、大量の血液が付着して、ぽたりぽたりと滴っている場所すらある。 「なんてこと」  そのあまりの惨状に、思わず顔を顰めて後退る。  すると、足元に何かが落ちているのに気が付いた。  ――それは、真っ赤な血で塗れた、銀糸(・・)。それが、何かに無理矢理千切られたように、地面に散乱している。 「……蜘蛛の糸。それに――何かしら」  にゃあさんは、銀糸の匂いを嗅ぐと首を傾げた。 「墨の匂いがする」  水明は、膝を着いたままじっと地面を睨みつけている。そこには、血まみれになった何か(・・)を、引きずった跡があった。  *  結局、その後も周囲を探し回ったけれど、「クロ」の姿を見つけることは出来なかった。  地面に残った痕跡を追ってはみたものの、少し進んだ場所で途切れてしまっていた。雨が振ってきたこともあって、どうも痕跡が流れてしまったらしい。  ならばと、そのあやかしの正体を探ることにした。 「蜘蛛は、獲物を捕獲してもその場では食べないと思うの。きっと、自分の棲み家に持ち帰るはずよ。糸を使う蜘蛛ならなおさらね。……まだ、時間はあるはずだわ」  けれど、蜘蛛と言っても様々なあやかしがいる。土蜘蛛、絡新婦(じょろうぐも)、大蜘蛛……クロを害したのは、一体どれなのだろうか。  まったく予想もつかない。周囲に聞き込みをしてみたものの、蜘蛛のあやかしの目撃情報はなく、特定まで至らなかった。  途方に暮れてしまった私たちは、取り敢えず店に戻ることにした。  店に辿り着くと、そこには、ふたりの酔っぱらいがいる筈だった。けれども意外なことに、彼らは素面のように見えた。至極真面目な顔をして、ふたりでじっと本を見つめている。 「……ただいま。どうしたの?」  不思議に思って、ふたりに声を掛ける。すると、東雲さんは苦虫を噛み潰したような顔をしながら、ちゃぶ台の上にあった一冊の本を指差した。 「――やべえことになった。付喪神だ」 「へ?」  意味がわからず、本を覗き込む。その本は、鳥山石燕(とりやま せきえん)の画図百鬼夜行の前陽編。江戸時代後期の妖怪画の名手である石燕が描いた、今でいう妖怪図鑑のようなものだ。  その中の1ページ、そこから絵が消えている。白いページに、ぽつんとその妖怪の名だけが取り残されている――。 「絡新婦。よりによって人食いのあやかしが、自分を本物だと思いこんで、出掛けちまってる」  東雲さんはそう言うと、苛立ち任せに、コォンと煙管を火鉢に打ち付けた。
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