賢淵のヌシ

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「付喪神――室町時代に描かれた『付喪神絵巻』には、『陰陽雑記云 器物百年を経て 化して精霊を得てより人の心を誑す これを付喪神と号すといへり』とある」  太陽は既に沈み、西の空に仄かに名残を残すのみ。私たちは、とある川辺の茂みで身を隠していた。東雲さんが「付喪神絵巻」の冒頭を諳んじると、水明は不機嫌そうな口ぶりで尋ねた。 「……それが、なんで今回のことに関係があるんだ」 「古来日本では、長い年月が経ったものは、妖しい力を得ると考えられてきたのさ。うちには、百年以上前の本なんてざらにある。そりゃあ付喪神にもなるさ」 「なんだそれ」  憮然とした表情をしている水明に、私は深々と頭を下げながら言った。 「毎年ちゃんと煤払いをしているから、本当なら付喪神になんてならないはずなんだけど……。もしかしたら、去年のが足りなかったのかも。水明、本当にごめん。うちのせいで……」  古いものを扱う我が家では、付喪神対策で、毎年入念に煤払いを行っていたのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。自分の店の品が他人に――それも、水明に迷惑を掛けているなんて、申し訳なさすぎる。  すると、水明は私をちらりと見ると、小さく首を振った。 「気にするな。クロを傷つけたのは、付喪神が勝手にやったことなのだろう? お前たちがけしかけた訳ではないんだ。誰のせいでもない」  水明は気丈にそう言ってくれはしたものの、けれども不安そうに地面を見つめている。  ――今、私たちがいるのは、宮城県仙台市、そこのシンボルとも呼べる広瀬川。名取川の最大の支流のその川は、市内を鮎が遡上(そじょう)することで有名だ。野鳥も多く見られ、豊かな自然に囲まれている。  現在、広瀬川は上流に大倉ダムが造られた影響もあり、嘗てほどの水量はなくなっていた。時代の流れに合わせて町並みが変わるのと同様に、川も昔とは姿を変えてきている。  その広瀬川には、嘗て大小様々な()があった。  淵は、川の中で一際流れが穏やかで深くなっている部分だ。そこは、魚たちのゆりかご、餌場――そして、怪異の棲む場所。淵は、周囲よりも水深があるために青緑色が一際鮮やかで、神秘的な雰囲気を放っている。そこは、遠い昔からあやかしの噂が絶えない場所でもあった。淵に住むものと言えば、所謂ヌシだ。この広瀬川にも、いくつものヌシの伝説がある。  ――賢淵(かしこぶち)の伝説もそのひとつだ。  今もなお伝わっている伝説はこうだ。  ある日のこと、男が釣りをしていたところ、蜘蛛が足に糸を巻き付けてきた。不思議に思った男は、近くにあった柳の木の根本に糸を移したのだという。すると、次の瞬間には柳の木が轟音と共に淵に引き摺り込まれてしまった。男が肝を冷やしていると、「かしこい、かしこい」と蜘蛛の声が聞こえたのだという――それから、ここは賢淵と呼ばれるようになった。 「――本当に、ここにそいつが来るのか?」  水明の言葉に、東雲さんは大きく頷いた。 「針山地獄は東北方面に通じる道が多いからな。しかも蜘蛛だろ? ここじゃねえかってピンと来たんだ。それに、隠世からこの場所へ繋がる出口に、血まみれの糸が残っていた。間違いねえよ。……心配するな、俺がお前の相棒を取り戻してやる」  東雲さんは自信たっぷりにそう言うと、顔色をなくしている水明の頭に手を乗せた。水明は、じっと賢淵を見つめていて、微動だにしない。その視線の先にあるのは、賢淵を覆うように張り巡らされた銀糸だ。見るものによっては美しくも見えるのだろう規則正しく織られた銀糸は、月光を浴びて不気味に鈍く光っている。  その時、茂みの奥からにゃあさんが姿を現した。 「ナナシと金目銀目は、反対側の川辺で待機しているわ。あと……近くに住むあやかしに聞いたら、ここにはもう誰も住んでいないそうよ。あの糸は付喪神の作ったものと見ていいようね」  にゃあさんはそう言うと、「くたびれちゃった」と大きなあくびをして、私の足元で丸くなってしまった。  私はにゃあさんの背中を撫でてやりながら、大きく深呼吸をする。この場所は近くに住宅はあるものの、川辺まで来ると、辺りは深い闇に包まれる。一寸先は闇とまではいかないが、視界の大部分がよく視えないと言うのは、人を不安にさせるものだ。隠世では、幻光蝶が常に纏わり付いているから尚更だ。  そのせいとは思わないけれど、何故か空気が重たく感じられて、押しつぶされてしまいそうな気持ちになる。  ……ああ、きっと緊張しているんだ。  見知らぬあやかし――それも、凶暴性を発露している相手に対峙するのが恐ろしいのだろう。  ついいつもの癖で、東雲さんの袖を掴む。  すると、いつもは気の抜けた表情をしている養父が、珍しく犬歯を剥き出しにして笑っているのが見えた。 「奴め、自分がここのヌシだと思いこんでいるにちげえねえ。付喪神(ニセモノ)が、本物を気取りやがって。うちの居候の探しものに手を出すなんてふてえやつだ……絶対に容赦しねえ」 「……東雲さん」  私は東雲さんの肩に手を置くと、「どうどう」と小さな声で諌めた。すると、東雲さんは苦虫を噛み潰したような顔になって、舌打ちをした。 「偽物は絶対に本物になれやしねえ。……わからせてやるさ」  東雲さんはそう言うと、ボリボリと自分の頭を掻いて、黙り込んでしまった。  元々口数の少ない水明と、緊張気味の私、それににゃあさんという面子なだけあって、自然と無口になる。ナナシや銀目がいれば、きっと賑やかなんだろうな、なんて思いながらもじっと絡新婦の訪れを待つ。  辺りには、さらさらと水が流れる音と、虫の声だけが響いている。  茂みに身を隠してから30分ほど経った。けれど、待てども待てども蜘蛛は姿を現さず、夏の夜の蒸し暑さにどんどんと気が滅入っていく。 「……まだかな」  退屈を紛らわせるように、なんとなく呟く。そして、隣に座っている水明に声を掛けた。 「水明も、早くクロ君に会いたいよね?」  すると、水明はぼそりと言った。 「……正直なところ、迷っているんだ」 「へ?」  肯定の返事が返ってくるものとばかり思っていたのに、思いもよらない水明の言葉に間抜けな声を上げる。そんな私を他所に、水明は賢淵から視線を外さずに――けれども、どこか複雑そうな面持ちで言った。 「クロに、会っていいものやら……迷っている」 「会いたくて、隠世くんだりまで探しに来たんじゃないの?」  すると、水明がゆっくりと首を巡らして、私を見た。  月影が写り込んだ薄茶色の瞳が、一瞬金色に染まる。それが余りにも綺麗で、思わずどきりとする。  そして、思いのほか水明の整った顔が近くにあったことに気がついて、なんだかソワソワしてきた。  けれどもそんな戸惑いは、水明の放った言葉で吹っ飛んでしまった。 「……なあ、夏織。お前は親を喰った相手を、許せるか?」 「――へっ?」  ……なんだか、さっきから驚いてばっかり。  でも、しょうがない。それだけ水明の言葉は、予想外で衝撃的だったのだ。  私はごくりと唾を飲み込むと、どういうことなのかと口を開こうとして――けれども、それは叶わなかった。  ――ひゅ、と急に息が詰まる。  首に何かが食い込み、一気に脳への血流が遮断されて、意識が遠くなる。新鮮な空気を求めて、首に食い込んでいるそれを指で外そうとするけれど、どうにもならずにみるみる内に視界が暗くなってきた。 「夏織!!」  その瞬間、熱風が頬を撫でて、ちりちりと肌が傷んだ。どうやら、にゃあさんが私の首に巻き付いていたものを、炎で焼き切ってくれたらしい。 「……ぐっ! ゲホゲホ……!!」 「夏織、大丈夫!?」 「は、はあ……っ! だ、だいじょ……ゲホッ!」  涙で滲む視界の中、炎で黒焦げになった残骸(それ)を確認する。  それは闇夜の中でも鈍く光る、粘着質の銀糸――そう知覚した瞬間、急に背中が重くなった。 「――ああ、芳しきおなごの匂い」  ――誰かが、背中に覆いかぶさるように密着している。  声の調子からすれば女性だろう。  それは全身が濡れているのか、服越しに冷たい水がじわじわと染みてくる。ぽたん、ぽたんと、水滴が滴り落ちて来て、私の体を濡らす。体温が強制的に奪われる感覚は、不快感だけでなく恐怖感をも呼び起こし、私を蝕んでいく。 「柔らかそうなお肉。ここに牙を突き立てたら、綺麗な血潮が噴き出すのだろうな。きっと、上等な酒の如く我の喉を潤してくれるのじゃろう」  耳元で囁かれる、老婆のように嗄れていながら、娼婦のような甘ったるさを含む声。  体温を感じさせない冷たい指が、私の頬を、首元を、鎖骨を……つつ、と愛でるように撫で、じゅる、と涎を啜った音が聞こえた。 「……い、いやあっ!!」  私は大きく悲鳴を上げると、なりふり構わず這って逃げた。  全身に鳥肌が立っていて、恐怖のあまり両手足が上手く動かない。けれど、そいつから放たれる冷たい殺気から一刻も早く逃れたくて、がむしゃらに体を動かす。どうやら、必死に逃げる私の姿は、そいつの笑いを誘ったらしい。 「ほほほほ! 活きがいいのう! ほほ、ほほほほ!」  愉快そうな笑い声が聞こえてきたと思うと、左足に何かが絡みついて前に進めなくなってしまった。それは銀糸だった。そいつは私を逃すまいと、次から次へと銀糸を飛ばしてくる。 「……くっ!!」  私はそれを解くために、必死になって自分の脚を掻きむしる。けれども、糸はしっかりと私の脚に食い込んでいて、中々解けない。そうこうしているうちに、月明かりに照らし出されたそいつの姿が視界に入り込んできた。  ――それは、死人のように色のない肌。黒髪は水で濡れて、べったりと顔や体に張り付いている。嘗ては上等だったとわかる薄汚れた緋色の着物。帯はしておらず、肩から羽織っているだけで、襦袢もなにも身に着けていないから、丸みを帯びた乳房が露わになってしまっている。形の良いへそから下――本来であれば女性器があるべき部分には、蜘蛛らしい縞模様の腹部。そして、細かい毛で覆われた八本の細長い脚が伸びている。  ……絡新婦(じょろうぐも)。  それは、鳥山石燕が描いた姿そのもの。長い年月を経て現界した、付喪神の姿だった。  絡新婦は、血のように赤い唇に愉悦の笑みを浮かべると、ゆらりと上半身を前のめりにして、動けない私を舐めるように眺めた。八本の脚に囲まれて、青白い半裸の女性に見下されることは、恐怖以外の何物でもない。  すると、怯えている私に、絡新婦は黒目がちの瞳をにたりと歪めて言った。 「――可愛いおなご。我が喰らうてやろう。嬉しかろう?」  ほほほほほほ! と、けたたましい笑い声を上げた絡新婦は、次の瞬間には笑みを消して私に手を伸ばした。けれども次の瞬間、絡新婦の剥き出しの腹に強烈な回し蹴りが入った。絡新婦は、数メートルほど吹き飛ぶ。しかし、すぐさま八本の脚が体を支えたために、倒れることはない。  すると、絡新婦から私を守るように、見慣れた背中が視界に入り込んできた。  それは、いつだって私を助けてくれる頼もしい後ろ姿。思わず涙が滲んできて、慌てて目元を拭った。 「……俺の娘を喰らう?」  東雲さんは不機嫌そうに呟くと、袖をまくった。そして、手をコキコキと鳴らして、怒りに満ちた声で叫んだ。 「巫山戯たことを抜かしてんじゃねえぞ、付喪神(ニセモン)が……!!」  その瞬間、東雲さんの腕に翡翠の鱗が浮かび上がる。爪は鋭く伸び、剥き出した犬歯は凶悪なほど鋭い。青灰色の瞳は金色に輝き、絡新婦を刺し貫かんばかりに睨みつけている。  東雲さんは勢いよく大地を蹴ると、絡新婦に肉薄した。すると、驚きに目を見開いていた絡新婦は、にたりと楽しそうな笑みを浮かべた。 「おもしろい。お前から喰らうてやろう」 「――へっ。やってみやがれ!!」  月明かりが照らす、広瀬川――そこで、ふたつの影が交錯した。
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