余章

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 釣り人は竿を置いて、脇に置いた自分の荷物へ手を伸ばす。年季の入った木箱の引き出しを開けると、中身は緩衝材の紙屑ばかりだ。それでも奥をまさぐって、小さな黒い粒をいくつか取り出す。厚い手のひらの上に載せて品を吟味し、欠けのあるものを無造作に湖面へ投げ捨てた。 「もう売れ残りなんで、お代は結構。こんなんでよけりゃ、持ってってくんなせえ」  小ぶりな蜆の貝殻が三つほど、男の手の上へぱらぱらと落ちた。 「新市街の真ん中の広場から、北に延びる大通り沿いに二軒、その突き当たりを右に曲がったところにもう一軒。三つとも看板は小せえが、半端な大手よりいい仕事をするって評判でさ」 「北の大通りだな」 「何しろその量ですからねえ、すんなり受けてくれるかはわかりやせんが」 「交渉するさ」 「だけど、一体、何の本なんです」 「読んでみるか」 「いやあ、あっしゃ字が読めないんで」 「そいつは初耳だな」 「自慢するようなことでもありやせんからね」  鍔の広い帽子の下で、年齢不詳の顔が曖昧に笑う。男は貝殻を懐にしまいながら、相手の表情を探るように見た。 「商売やめて、これからどうするんだ。群島(くに)に帰るのか」 「今さら帰ってもねえ。一つところにじっとしてるってのも性に合わねえし、体の動くうちは旅暮らしですかねえ」 「だったら、手伝ってくれよ。もののついでに」 「何をです?」 「本が出来たら、あちこちに配って歩かなきゃならないんだ。北湖、山峡、群島、もちろん美浜でも」 「それも作家先生のご注文で?」 「旅をしてみたいんだとさ。人でいる間は、ずっと閉じこもってばかりだったからって」 「するってぇと何ですか、先生、今はもう人じゃないんで」 「ああ、今はこの中に」  傍らの布包みを、男の指先が軽く弾く。降り注ぐ陽射しの中に、白い埃がふわりと舞い上がった。 「文字になっちまったよ。おまえさんの読めない文字にな」
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