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「もしかして、山峡国へ行くの? だったら、頼みがあるのだけれど」
「俺は、おまえの書き物の種を拾いに行くわけじゃないんだがな」
「わかっているわ。仕事が終わってからでかまわない。戻ってきたら、どんな些細なことでもいいから聴かせてほしいの──あの高名な、深山の姫君の噂を」
当惑しているかのような沈黙があった。いくらか暗さに慣れてきた目を凝らすと、男はどうやら苦笑しているらしかった。
「何か可笑しい?」
「いいや」
庭先の梢の上を、轟と音を立てて風が渡る。群雲が走り去り、月光が豪雨のように露台へと降り注いだ。
月明かりの下、男の顔が白々と照らし出される。左頬に、顎の近くまで伸びる大きな古い傷跡。
わたしは思わず目を逸らし、硝子戸に映る自分の姿を見た。無色透明の、幽霊のような女の影。その胸元に、鈍く赤い光が灯っている。首飾りの先に吊り下がった赤珊瑚が、月光を反射して輝いているのだった。
「帰ってきたら、また顔を出す」
男はささやいた。
「風邪を引くなよ」
声のするほうへ顔を戻したときには、すでに男の姿はない。
無意識に、胸元の赤い宝石へ手を重ねる。幼いころから直らない、わたしの癖だった。
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