余章

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余章

 ただ今、帰りました。霊廟の天井に、若い女の声が反響する。  応える者はない。が、受け止めるものはある。戸口の正面に鎮座する石碑と、左右に配置された一対の墓標。いずれも手入れが行き届き、花も供えられて、誰かの詣でた痕跡があった。  ここに来るのは初めてではない。都へ上るたびに訪れて、二つの墓に祈りを捧げてきた。母の墓は入り口の左側のほうだが、必ず右側の墓にも手を合わせるようにと教えられている。  両側に祈り終えて立ち上がった女は、目も冴えるような真紅の上衣(うえぎぬ)と袴を身につけ、やはり紅い(こしら)えの剣を腰に帯びている。結い上げたまっすぐな黒髪、背筋の伸びた姿勢。身長は平均よりもやや高めという程度だが、細く引きしまった体つきは凛として力強い。  帰りました、と女は言ったが、この御殿で暮らしていたのは二十年の人生のうち、最初の一年だけだ。もちろん記憶にあるはずもない。  それでも彼女の心には、在るべき場所に戻ってきたという自覚がある。血筋ゆえか、幼いころからの暗示のためかはわからない。が、胸の奥にふつふつと懐かしさが湧いてくるのは、紛れもない真実だった。
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