余章

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「その曲」  軽やかな笛の音にふと懐かしさを覚えて、わたしは窓の外へ問いかける。小春の木漏れ日の中、切り株に腰かけた男は笛の吹き口から唇を離した。 「何という題名だったかしら?」 「(つばくろ)のうた」 「ああ、そう、山の国の童謡ね。姫君のお気に入りだった」 「そんな話は知らないな」 「あら、あなたから教わったのだとばかり思っていたけれど。誰に聞いたのだったかしら」  男は苦笑しただけで、何も言わなかった。  本当は、誰に聞いたわけでもないのかもしれない。片田舎に隠れ住む未亡人に、来客などほとんどありはしないのだから。唯一の話し相手であるこの幼なじみにしても、とうの昔に忍びの稼業を離れ、もう遠国の情報を運んでくれることはない。  とすれば、また自分で作り出した妄想だろうか。近ごろは夢で見た出来事と想像した物語とが現実の記憶を浸食して、区別が難しい。 「でも、もう大丈夫……」  つぶやきながら振り向けば、室内は書き散らした紙が散乱して足の踏み場もない。わたしは幾日、この部屋にこもっていたのだろう。前に食事をしたのがいつなのかも覚えていない。ただ書きながら夢を見て、夢の中でも書き続けていた。 「全部、終わったわ」
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