余章

8/10
46人が本棚に入れています
本棚に追加
/437ページ
「とんとお見かけしやせんでしたねえ。もうこの世にはおられないもんかと思ってやした」 「まあ、いないと言えば、ずっと昔からいないようなものだがな。そっちはどうなんだ、儲かってるのか」 「どうもこうも。戦好きなどこぞの若殿さまが死んじまったおかげで、商売上がったりでさあ。何しろ貝殻は、不穏なときこそ売れるもんですから。気前のいいお得意さんももういねえし、そろそろ潮時かと思ってやしてね」 「何だ、廃業するのか」 「この不況に、可愛い甥っ子の商売敵になるってのも気が進みやせんしねえ」 「ああ、例の甥っ子。商売を始めたのか」 「まだ駆け出しですけどね」  餌を付け直した針を水に放りながら、釣り人はさほど困っているふうでもなく言う。 「で、今日は? 随分と重そうな荷物をお持ちのようですが」 「これか」  傍らに置いた四角い布包みを見て、男は答える。 「原稿だ。北湖(こっち)には、いい書肆があるんだろ」 「本でも作ろうってんですか。そんなの美浜にだって、いくらでもあるでしょうに」 「鏡の都の職人のほうが、腕が立つんだとさ」 「作家先生のご要望ってわけで」 「そういうことだ。いい貝はあるか?」
/437ページ

最初のコメントを投稿しよう!