第四話

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第四話

志賀は目覚めた時にはいなかった。いつも起こしに来るのに今日は来ない。 「何マジになってんだろ……」 ずっとこのまま一緒にいたいと思ってるなんて…… 引き戸をノックすると志賀が部屋入ってきた。 「若様、私は本邸に戻りますが…どうなされますか?」 「……ここにいる」 詰襟のシャツから出ている志賀の首筋に酷い鬱血の痕が見えた。自分がやったと思うと謝罪どころか、もう一度触れたいなんて自分の浅ましさに嫌気した。 「では行って参ります」 遠くで蜩が鳴いている。もうすぐ夏が終わろうとしていた。 * 突然、部屋の壁が軋んだ。 地震? 部屋から出ると、志賀邸に残っていた女中が慌ててこちらに走ってきた。 「表に出ろ! 早く!」 揺れは大きくなり何処かで崩れる音が響く。 街は建物が崩れ煙が上がっている。俺は、妙な静けさの中で呆然と立ち尽くした。 大正十二年九月一日、その死者約十万人に及ぶ後に言われる関東大震災だった。 「志賀!」 俺は青木邸に走った。街は火災か発生し道路が混雑していた。俺の横を馬車が通り過ぎ止まった。 「青木!どうした」 「有島! 志賀が!」 「乗れ」 有島の馬車に乗ると青木邸に走り出した。途中、道が通行止めになっていて通れなかった。 「ここでいい、ありがとう」 「無事でな」 「うん、有島も」 俺は馬車を見送った後、青木邸へ走った。青木邸の裏口から入り中の様子を覗いた。庭園に志賀と他の使用人達の姿が見えた。 「志賀!」 「時久様……」 俺は志賀に駆け寄ると抱き締めた。 「旦那様が!」 志賀は俺の腕を払い邸に戻ろとする。俺は志賀の腕を掴んだ。貴久がいる部屋付近から煙が上がっている。 「もういい…もういいよ! おまえまで失いたくない!」 「……旦那様」 涙を流す志賀を強く抱き締めた。 本当に良かった無事で…… 知久さ…ま____ 見慣れない白い天井、心拍数を刻む電子音。右腕から細い管が伸び、吊るした薬剤バッグと繋がっていた。 真っ白____ 俺は風邪を拗らせ一週間、高熱で生死を彷徨っていたと岸辺に聞いた。 結局、検査等を経て二週間入院していた。一人暮らしをしていたマンションは、解約され実家に戻れと父からお叱りを受けたのだっだ。 久しぶりの研究室から覗く学院はあちらこちらで桜が咲いていた。 「青木、大丈夫なのか?」 「おう、里見もう平気だよ」 「それ何?」 俺が無意識に触っていた物を里見が指差した。 「……懐中時計?」 「そんなの見れば分かる。なんでおまえがアンティークなもん持ってんの?」 「分からない…大切な物だったような」 「なんだよそれ」 病院で目覚めた時に持っていた。N.S……イニシャルなんだろうけど、全く記憶にない。 「また大ホールでなんかやるんだったな」 「ああ、確かここの卒業生らしいぜ。おまえの方が詳しいんじゃないか、親父さんの教え子らしいよ」 「……興味ない」 俺の父親は有名なピアニストだ。家族全員が音楽関係の家系で年の離れた兄も姉もそうだった。俺は幼少の頃から体か弱く、今は音楽と無縁な生活をしている。 ここの大ホールは一般に貸し出ししていて、シーズンでは頻繁にコンサートが開催されている。卒業生だとかなり融通が利くらしい。 廊下で数人の男性グループとすれ違った。その中の男と目が合って、知り合いかと思ったが俺には心当たりかない。 「君……」 「へぇ?」 思わず立ち止まってしまった。男が俺に近付いて来る。 「もしかして青木先生の息子さんですか?」 「なんで俺を?」 「……貴方は音楽は?」 「していません」 「なぜ?」 「高音が割れて聞き取れないので」 俺は、幼少期に出した高熱のせいで耳に後遺症が残った。男は泣きそうな顔で俺を睨んでいる。 「私を忘れたのですか… 貴方は私を置いてっ……!」 「え____?」 男は何かを投げて足早に去っていった。俺は床に転がった物を拾い上げ確かめた。 二センチくらいの古びた木の玩具? 忘れていた何かを断片的に思い出す。フィルムが巻き戻るみたいに繋がり脳内で再生する。ポケットの懐中時計を取り出した。 N.S……なおき…しが? まさか! 俺は男を追って走った。中庭で先程の男が桜を見上げていた。 「あんたさ!」 振り向いた顔が志賀と重なる。 「本当に?」 「覚えているのは貴方の名前とピアノの音だけ……」 「どうやって?」 「細かい事は気にしないでしょう。初めまして近守敦樹(ちかもりあつき)です。知久さん」 俺は敦樹に駆け寄り締めた____ 「……初めまして…青木知久です」 風で舞う花弁を眩しそうに見る彼に、俺はそっと唇づけた。 【完】
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