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「ママ、カートあったよ!」
ライルの声にハッと現実に戻る。車から降りて立ち尽くしていたミルシェの元に、ライルがカートを押しながらやって来た。
屈託のない笑顔に毒気を抜かれかけるも
「っ!」
パン! と、大きな音が響く。
頬を抑え、ライルは涙目で母の顔を見上げた。
「たとえ数メートルでも離れたらいけないって言ったじゃない!」
「ご、めんなさい……」
叩かれた部分が赤くなっていく。頬を抑える小さな手が、生気を失ったように真っ白だった。ミルシェはその手を握り締めた。
「あなたまで失いたくないのよ……」
「……ママ」
降りしきる雨が母娘を包む。
他の客が二人をじろじろと眺めながら、通り過ぎていく。
鼻をすすりながら涙を流すミルシェに、ライルはハンカチを差し出した。
「ごめんなさい」
ハンカチを受け取って、ミルシェはライルの涙を拭いた。その後に自分の涙も拭う。
「ママも、突然叩いてごめんね。でも、一人で飛び出したら危ないってことは分かったわよね」
ライルは頷く。その頬を撫で、ミルシェはカートを受け取った。
「さ、行くわよ!」
モールには多彩な店が並ぶ。洋服やおもちゃ屋に目を惹かれたが、ミルシェは一切立ち止まらないので、ライルも置いて行かれないように仕方なく付いて行った。
食品売り場に着くと、メモを広げる。
「まずは、パンからね」
ロールパンやバケットをカートに入れるミルシェを手伝っていたライルは、お買い得コーナーのポップを目敏く見つけた。
「こ れ は!」
駆け寄り、山と積まれた箱の一つを取り上げる。
ブルーベリー、バナナナッツ、チョコレート。三種類のマフィンが五個ずつ入った、お得なバラエティセットだ。それぞれをバラで買うよりも三百円ほど安い。
わなわなと震えていると、ミルシェが寄って来て、箱を覗き込んだ。
「本当にマフィンが好きねえ。昨日作ったじゃない?」
「安いんだよ! ほら」
値段を指差し訴えてみるも、ミルシェは「えー」と買ってくれない雰囲気だ。ライルは一か八か、賭けに出てみた。
「ねぇママ、明日は……私の……」
ミルシェは両手を開き、両腕を高く掲げた。「お手上げ」降参という意味だ。
「ライルの誕生日だものね」
くす、と笑う。
「さっき叩いたお詫びよ。買ってあげる」
「やった!」
意気揚々とマフィンを掲げるライル。
「お嬢さん、お嬢さん」
その肩を叩いて、ミルシェは隣のコーナーを示した。
「マフィンもいいけど、ケーキを忘れてない?」
「うわあ」
去年まではカラフルなクリームで猫だの花だのを描いたケーキを買ってもらっていたが、今年は変わったケーキが食べたかった。
そのケーキは冷蔵庫の隅で冷やされながら、買われ、食べられるのを待っていた。
白いクリームを纏った、ふかふかのスポンジケーキ。真っ赤なイチゴが美しいアクセントになっている。
テレビで見たのだ。「外国では、誕生日にイチゴの乗った、白いクリームのスポンジケーキを食べる」という習慣が、ライルにはとても魅力的に思えた。
「これがいいの?」
綺麗な形のイチゴが乗った、大きなケーキを持って帰るため、ライルはよくよく吟味した。ようやく気に召すケーキが決まり、ミルシェに手伝ってもらいカートに乗せる。
それだけでライルは満足し、買い物中もケーキを眺めてにこにことご機嫌だった。ミルシェはケーキとライルを伴い、チキンや野菜を買っていく。
「ケーキ以外は考えられない」と言う通り、買い物後のアイスをねだることがなかったので、ミルシェは驚きと可笑しさに笑いを堪えられなかった。
食料品を買い終えた後は、雑貨屋でローソクやクラッカー、風船を買った。
心ここにあらず、という表情で車に揺られる娘の姿に
「ライルの初恋は、ケーキかしら」
母親は笑いを噛み締めた。
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