第三章 阿漕の浦奇談

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すべては白河の性の乱脈と(一説では御所内のすべての女に彼は手をつけたと云う。平清盛も彼の隠し子と云われているし、鳥羽・璋子の第六子雅仁親王{後の後白河帝}も彼の種と云われている。つまり孫の鳥羽に入内させたあとも彼は璋子と関係を持ち続けたわけだ)上々皇とでも云うべき仕儀のなせるわざであり、わずか五才だった崇徳への強引な譲位を鳥羽(この時二十才)に迫り、実権のない形ばかりの上皇として彼を七年(天皇在位を含めれば二十二年)ほど置いていたのである。俗に云う藤原摂関政治に代わる白河の‘幼主三代の政’という次第だったが、そのにっくき白河の崩御ののち鳥羽はすぐに崇徳帝(この時十二才)から政所を引いた。これで晴れて実権のともなった院政を彼は敷けたわけである。しかしそれにとどまらず十一年後寵愛する得子に皇子が生まれるや、その体仁親王をわずか三才で近衛帝として即位させ、二十三才になっていた崇徳帝を譲位させた。つまり白河の‘幼少の政’を彼も引き継ぎ上々皇となった次第。因果はめぐるというか、なんだかもう訳のわからぬ複雑怪奇な御所の仕儀ではあるが、要はこの時璋子の栄華は去ったのである。璋子は髪を切り法金剛院に落飾させられた。得子呪詛の嫌疑をかけられたとも云うがいずれにせよ得子一派の璋子追い落としへの画策がここに成就したわけである。上皇の妃でありながら皇后ともなっていた得子とその一派(元の摂関家)はこれで名実ともに待賢門派・閑院流勢力を凌ぐことになったのだった。  さてではここに於いて幼少以来四十年弱の璋子の内実はいったいどうであったのか、阿漕の浦逢瀬に至る心の経路をさぐってみたい。傍目には乱脈と云うほかはない白河と鳥羽の性欲と業を彼女は終生身と心で受け切ったわけだが、これをして主体性のない女身のかなしさと、人形の家のノラであると、余人は論評にかまびすしかろうが、しかし飽くまでもそれは全員ではない。たとえば子を身ごもり、産むことのできない我々男であれば女性、就中母としての何某かのことはこれはわからないのである。少なくも私はそうだ。権力者であろうが何であろうがすべては自分女がつくりだした子だとどこかで思うなら、主体性の如何ははたしてどちらにあるのかさえわからなくなってしまう。
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