第一章 散るさくら

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いまはすでに老女房の、主(あるじ)璋子に生涯を尽くした堀河も、そのような主人への愛しさに思わず目もとを袂で隠す。しかしまさにこの時「宮様!」と咳払いもせずに控えの間より女房が声を上げた。かかる非礼を怪しんで目もとを拭いつつ堀河が急ぎ駆け寄る。「何事じゃ」と襖を開けて問えば「院渡らせられます」との御注進。堀河は璋子に目を遣って「例の、得子様立后のことでございましょう。宮様、ここは急ぎ…」と早口で上奏し且つ女房どもへなるべく院を引き留めるようにと指示をする。是非もなく璋子は先ほど認めた唐紙を文袋に入れて御座(みくら)より降り来たり、御(おん)自ら義清に手渡した。「義清、そなたの精進と菩薩請願成就を願う。そなたの出家が能因のそればかりではないことは知っている。‘数奇者め‘と云うたはまろの戯言、悲しみゆえの愚痴じゃ。このまろをいつか引導したいと、そなたはあの折り確かにそう云うた。おのれの生き方以て人の本懐を世に示したいとも。その菩薩請願成就を願えばこその、これは心付けじゃ。愛しいそなたへの、まろの形見じゃ」そう真摯に告げて、さらに「まろはただに桜花であった。色衰えて人の愛でざればもはや存(ながら)うことも難しい。いまはせめて、後の世において、おまえとまた会いたいものと…そう思うばかりじゃ。さあ、もう行きなさい、義清…いや、法師様!」と感極まったように云って、もったいなくも義清に合掌拝礼するのだった。余りのことに義清が返礼しようとするが「義清殿、院の御目に止まっては、今はただに…」と堀河がその背を押す。人が噂する阿漕の浦とも思える現場を院に見られることはやはりはばかられた。院の側の性の乱脈は一切問われず、一世一代の「聖俗合体(注:これには意味がある。のちほど詳述する。著者より)」と璋子が期した逢瀬だったとしても、それは絶対に、且つ永遠に認められることはないからだ。義清は文袋を押しいただいて懸命のひとことを云い残した。「いつの世も決してあなたを忘れません。宮様、いや、璋子様!…おさらばでおじゃりまする!」北面の武士として最後の義清の姿。散る花の下御庭を駆け抜けて行った。  【もろともに我をも供して散りね花憂き世を厭ふ印ある身ぞ -西行】f7ff304d-70b8-4626-a461-7a5851d16f2c
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