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もう草履はなかった。
素足に血がにじむのも全く感じられず、走る。つまづき転んだ体を引きずるように起こされながら、ちらりと振り返る。ズズ……、と地を這う音が耳に入ると、女はぎゅっと目を閉じた。
「もうこれ以上は無理でございます!……陽人様、私を置いてお逃げください。」
「何を言う!私はそなたを選んだのだ!」
薄汚れた頬を両の手で覆われ、叫ぶ。共に落ち延びるため、いつもの華やかな装束を脱ぎ、懐かしい、下働き時代のぼろに身をやつしていた。
同じように、下男の姿に身をやつした陽人が這いずる音をにらみつける。支えにしている横顔を見上げると、白い体が目の端に映った。月夜に照るそれは、真珠のような艶を帯び、なぜか神々しささえ感じさせた。
「陽人様、よくも、よくも紫などに……!」
ズズ……、ズズ……と這う音と共に長く裂けた赤い目が、二人をねめあげる。立たせようとされると刺すような痛みが襲う。押さえた手に腫れた足の熱が伝わる。陽人は紫を背に白い大蛇に向き直った。
「聞け!露!……そなたを悩ませ、そのような姿にさせてしまったのは、私の責任だ。……だがな、その姿になるまで私を思うてくれたそなたなら、理解できるであろう。……私は心の底から紫を欲したのだ!」
「身勝手な!子までなした私というものがありながら、そのような卑しい者と……!左大臣の姫では不釣り合いとおっしゃるか!」
そう言うと、カッと裂けた赤い口を開き、紫に鎌首を近づけた。と、同時に、「露」と呼ばれたその大蛇は、悲しげな、苦しげな色を赤い目に浮かべた。
「……私とて、後ろ盾の確かな姫であれば、このように思い煩うこともございません。それが!どこの馬の骨とも分からぬ、下働きの者と……!紫はお屋敷の門に捨てられていたというではありませぬか!お許しを得て錦に身をやつしても、しょせんはみなし子!身の程知らずもはなはだしい!」
そう言うやいなや、露が開く真っ赤な口は、紫を覆いつくす。暗く、身動き一つできず、もわっとした生暖かい風が辺りを覆う。ぴちゃり、と湿った何かが頬に当たると、全ての力が抜け落ちた。
「うっ」
鈍い声がそばで聞こえ、さっとあたりが明るくなる。途端、そばにあった気配が崩れ落ち、どさりと身にのしかかる。そこには、胸を紅に染めた陽人がいた。
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