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もし、彼の人に見初められなければ、この世がどれほど素晴らしいものかを知らずに、今生を終えることになっていただろう。
かまどの前で日なが一日火の番をしていたとき、自慢の黒髪がするりとその手に含められた。髪を愛でられ、ほほえみかけられる。
それが、全ての始まりだった。
季節の移ろい。世の美しさ。そして通わす心の細やかさを、一つ一つ、教わる。それまで霞がかかっていた浮き世が、色鮮やかに目に映るようになったのだ。
紫の目から、おびえが消えた。代わりに強くきっかりと露を見すえ、うなずいた。
(では、私達はここでしばらく留まるとする。紫、約束を違えれば……、よいな)
「――はい」
陽人の傷口から、細かな光の粒が吹きだし始めていた。雲母のきらめきのようなそれが、陽人の体を包み始める。光が繭のような形をとると、今度はその輝きが胸を中心に集まり始める。身の中に入っていくようにさえ見えた。光が身の内に収まる。と、そこにはつやつやと光る御影石の狐に姿を変えた陽人がいた。
露は愛おしそうに頬を狐に押し当てひとさすりすると、ズズ……、ズズ……とそばに体をくるくると丸めていく。とぐろを巻き終え、優越感に満ちた赤い目で紫を一度見下すと、ぱたりと目を伏せた。すると、大蛇の周りに先ほどと同じ光が集まり始める。集まった光が成した形は、神社の社殿だった。
「は……陽人様」
呆然と見ていた紫は、はたと我に返ると、目の前で姿を変えた陽人に取りすがった。いつもの柔らかくたくましい肌ではなく、硬くつややかなものに変わり果てている。胸が押し潰されそうになり、硬い体に頬を押し当てた。
「あ……」
御影石の奥底から、ほわりと伝わるぬくみ。立ち上る肌のにおいさえ感じられるように思えた。
狐の体をひとさすりすると、紫は頬を離し、強いまなざしで一度見つめる。踵を返すと、まだ木立の茂る急な坂をゆっくりと下り始めた。
小高い丘の上から、見目麗しい女が人里に降りてきた。あまりにみすぼらしい姿を哀れに思った村人が、かいがいしく世話を焼いてやる。上に社があると言い、それを見つけたこの女を村人は神の使いとしてあがめた。――その中の一人が、最初の紫陽花となるのである。
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