紫陽花奇譚

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 大きく傾いた体が屋敷の柱にぶつかり、そのまま流れてしまった。それを知った陽人が、とうとう紫を連れて逃げ出したのだ。  社殿に上る階段を支えに、体を立てていく。足を置くと、髪の先まで痛みが走る。また、左足をくじいてしまっていた。  足を引きずりながら、狛狐のところまで歩いて行く。土台に手をかけ息を調えると、それで背を支え、石段の方に向き直った。  露が消えた辺りをじっと見つめる。  途端、空高く響きたるように、紫は笑い始めた。 「分かるはずないでしょう!ヒナタが陽人様の生まれ変わりだなんて!あざはただの偶然なんだから!」  痛みに脇腹を押さえ、口をつぐみ、こらえようとする。だが、口の端がゆるむと、たまらなく吐き出したようにまた、甲高い声で笑い始めた。 「陽人様はすぐに冷たくなった。ぬくもりなんて保たなかったの。……あなたは、それを感じ取れなかったようだけど」  三月を過ぎたとき、御影石の奥に籠もった温もりは、はかなく消え去った。風が冷たさを帯び始めた頃である。触れる石の冷たさが身に染みるのもかまわず、紫は何度も陽人をさすった。が、消えた温もりは戻ることなく、ますます冷え、紫の指を裂いた。しかし、露は相変わらず、陽人の体に頬をすり寄せ、うれしそうに目を細める。気がついてないと悟った紫は、その事実を心の中だけに封印した。  もしかしたら、またぬくみが戻るかもしれない。そう思い、露に従った。  五年、十年。年月を重ねても、陽人の体からは、灯火ほどの温もりも戻らない。それでも、露に従った。  逃げ出せたかもしれない。――いや、違う。男を導き、溺れさせることに、心が弾んでいたのだ。 「私は、蛇以下なのよ」  ある寒い夜、逢瀬を終え、神社の前を通った時、小高い社殿のそばに白い塊を見つけた。  目を凝らすと、露が、狛狐を抱きかかえるようにとぐろを巻いていたのだ。暖めるように身を寄せ、目を細めている姿に、月明かりが映える。嫉妬に狂い果てた末の蛇の姿。その姿がまぶしく感じられた。  九十番目の紫陽花となる男の父は、第一次大戦の景気に乗って事業で成功し、男はその金を使い、今宵も紫を美しく飾ってくれていた。わざわざ上海から職人を呼び寄せ作らせた絹の中国服。あわせてあつらえた小ぶりの鞄。薬指に光る真珠が蛇の艶めきと重なると己が、惨めに思えた。  全てを川に投げ入れ、自らも飛び込んだ。
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