たいした恋じゃない

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*** 「僕ね、どうやら半年後には死ぬみたいなんですよ」  年末最後のゼミが始まる直前に、真野先生は少し困ったように、そう言った。  それはまるで経済新聞を読みながら、「金利が上がったら嫌だなあ」と独り言をつぶやいているみたいな物言い。  浮島はもちろん、ゼミ生全員の空気が張りつめたものになった。  ――なに言ってんのこの人。  ――え? まじ?  ――いや、さすがにそれはねえだろ。  所々からゼミ生達の小さなざわめきが、当時の浮島の耳にも入る。  お忍びの付き合いとはいえ、そんな重要なことを他の学生達と同じタイミングで聞かされるなんて、信じられなかった。質の悪い冗談だと思った。  真野先生は死ぬ発言をした日のゼミにも関わらず、いつも通り誰かが発表している最中にお菓子を配り歩いていたし、論点から脱線していた学生をやんわりと元のレールに戻してあげていたし、しかも三ヶ月後の春休みには再び国立図書館の課外授業を企画しているのだと笑っていた。  ゼミが終わったあと、研究室で「どういうことだ」と問い詰める浮島に、真野先生は言った。 「本当なんだ。僕はステージ4の胃癌で、他の臓器にも転移しているそうだ。胃を切除する予定だけど……どうだろうね。食べ物を食べられなくなるのはちょっとなあ」  食べ物が食べられなくなるかもしれない、と心配する真野先生に対して、浮島は怒りに震えた。 「そんなこと言ってる場合かよ!」 「そんなことしか……心配できることが、僕にはもう残っていないんだよ」  淡々と他人事のように自分の病状と治療の計画を話す真野先生に、浮島はついていけなかった。 「あと少しで今年度のゼミも終わりだから、ちょうどよかった」  ふわっと笑う真野先生を、この時はじめて殴り飛ばしてやりたいと思った。  でも、できるはずがなかった。  浮島はその場で膝をつき、ぼたぼたと落ちる涙を床に落とさないよう、両手で何度も顔を拭くことしかできなかった。
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