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壱
八月に西郷星の騒ぎが起き、騒然となったと思ったら、いつの間にか秋は急激に近づいてきていた。恐ろしいばかりの大雨が東京中の川の水位を著しく押し上げたのが二日前の九月十四日。この雨で江戸川が氾濫し橋が一個流失したが、その他の市中は堤防が破れることもなく、大川より西側はこの日になっても道のぬかるみが消えぬほかに大きく被害は出ていなかった。
そしてこの大雨が収まってみたら、涼しい風が東京に吹き始めていた。
「ここいらの川が溢れなくてよかったねえ」
日本橋の先にある数軒の飲み屋が並んだ路地で、茶碗酒をあおりながら話をするのは、武蔵日日新聞の下っ端記者の高村新吾と大店で名高い呉服屋の番頭の秀作という男だった。
「まったくでございます。日本橋川も道の際まで水が迫っておりましたから、溢れていましたら店も被害を受けておりましたでしょう」
ほっとした表情の秀作の茶碗に、大ぶりの徳利から酒を注ぎながら新吾は頷く。徳川のご治世の頃は、間口の狭い店などは客の長尻を防ぐため、せいぜい二合までの細口徳利で酒を出すものであったが、昨今はこの四合は入る口の短い大徳利をどんと突き出しあとは勝手にやっておくれと言った感じの店が増えた。田舎から出てきて店を開いたが訛りを気にして愛想の言えない主人が増えたので、こんな接客が普通になったようである。
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