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 気付いてみれば東京には冬の風が吹き始めていた。北西からやってくるその乾いた風は、町に砂塵を舞わせる。  秋は本当に駆け足で過ぎて行った。  彼岸も終わろうという頃、ついに九州薩摩での戦が終わった。九州各地に進軍した薩摩軍は、結局政府軍の反撃により全部の戦場から敗走した。  薩摩の軍主力は、鹿児島に戻り山城である城山に籠もり抗戦していたが、各地の戦線から集結した政府軍の猛攻に屈し、大西郷こと西郷吉之助も自害したという話が電信によって東京にも即日で伝えられた。  各新聞社は号外でこれを報じたが、中には勇み足で誤報を絵にして出した会社もあった。西郷が海上に逃れ船上で自刃したと言う虚報が舞い込み、月岡芳年がこれを錦絵にしてしまったのだ。  どうやら実際には城山の地で果てたようなのだが、肝心の西郷の首が発見されず、本当に彼は死んだのか懐疑的な報道をする社も出た。  高村新吾の勤める武蔵日日でも当然この戦争終結は報じられた。しかし、いくら届いた政府の広報をひっくり返しても西郷の最後の様子がまったく判らないので、絵描きにどんな絵を発注するか徹夜で激論が交わされることになった。下手な絵を載せ恥をかきたくはないが、外連味のある絵でなければ売り上げは望めない。社主と主筆は口角泡飛ばし激論したが、新吾はこの間殆ど居眠りをしていた。  最終的に西郷を中心に主だった腹心が周りを囲み刀を地に刺し、敗残に苦渋する絵を落合芳幾に描いてもらい売り上げを稼ぐことが出来た。  だがそれももう二ヵ月も前の話。鹿児島に出征していた兵士たちも、多くが帰京しており、現地には軍艦数隻と駐屯の為の政府軍が一握り残るのみ。彼の地に残された兵は、みな農村の出身者であった。つまり士族ではない。薩摩の武士たちは、農民兵の政府軍に屈したというのが周知の事実であったが、負けてなお監視をするのは農村出身の政府軍という皮肉な図式がそこにあった。
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