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荒崎が意外そうな顔で言った。親は元侍とはいえ、暁斎自身がお目見えだった訳じゃない。彼が御所となった江戸城の内部に詳しいとは思えなかったのだ。
だが、暁斎はにっと笑って答えた。
「あんたは知らないかもしれねえが、これでもおいらは元表絵師狩野派の一員だよ」
荒崎が、あっと声を漏らした。暁斎の師事した狩野派一派は、徳川家の表具装飾絵を独占的に引き受けていた。城内に詳しいのは当然という訳だ。
「新吾、いいか、おめえは何もするな。何をされても動くんじゃねえぞ」
そう言うが早いか、暁斎は鴉の絵が描かれた帳面に筆を向けた。
「さあ、逃がしてやるぜ。白い鴉さんよ!」
筆がさっと何かの文字を描いた。梵字の様である。
その直後、バサバサっという羽音が室内に響いた。一瞬にして帳面の中の絵が掻き消えたが、かまわずに暁斎が叫んだ。
「背中先一寸! 違えずに頼むぜ斎藤一さんよ!」
「承知!」
反射的に叫んでいたが、自分がどう呼ばれたかなど全く気にせず、藤田は妖刀で新吾の背筋の先一寸を空に斬った。
裂帛の気合のこもった刀先は、まったく目視することが出来ぬほどの鋭い速さでそこを駆け抜けた。
鴉の悲鳴、いや絶叫が木霊した。
「己、我が魂の緒を!」
「さあ、これでおめえはもう新吾には乗り移れまい」
暁斎はそう言うと矢立の筆を取り出し叫んだ。
「新吾、絶対に目をつぶるなよ!」
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