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再び、魔性に彼が取り込まれぬようにと。
「副編集長、写真は撮り終えました」
新吾の背に若い眼鏡をした男が声をかけた。この男は、武蔵日日新聞社の新人写真師で、若菜昌平といった。ついに先年から武蔵日日新聞でも紙面に写真の掲載ができるようになったのだ。新しい印刷機を導入した飯田橋の印刷会社との提携がなったのだ。もう世間は錦絵新聞の時代ではなくなりつつあった。
まだ紙面に絵の需要はあるが、かつてのように元浮世絵師たちが筆を競うなどという事はなくなり、記事の片隅に小さな墨絵が入るばかり。一面目には、写真を載せるのがどこの新聞も定着していた。
この背景には、明治二十年に政府が行った新聞への大きな締め付けと言える政令の発布があった。極端に世論を煽ったり、真実とかけ離れた記事を載せた新聞は容赦なく取り締まられ、その発行を取り止めさせられたのだ。
この年にに潰れた新聞の数は、三桁に迫ったと新吾は記憶している。
正確性を新聞の報道は求められるようになった。そう感じた社主は、英断で写真技術の導入に踏み切ったのだ。
まだまだ粗く、何が写っているのか判別するのに少々時間が必要ではあるが、それは紛れもなく事件や対象を切り取って来た画像なのだから、記事の説得力は飛躍的に上がったと言えた。
その反面、色味がなくなった新聞は、地味な存在になった。広告で色インクを使うときもあるが、結局手刷りによる多色刷りであった錦絵の絢爛さには足元にも及ばない。
錦絵新聞はある意味、時代のあだ花であったのかもしれない。しかし、その一時を暁斎師匠と走り抜けられた自分は幸福だった。新伍は心底そう思った。あの頃作った数々の新聞は、彼の中には誇りとして刻み込まれている。
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