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どうしよう、何も言う言葉なんて見つからない。隣の譲さんが何? と尋ねるかわりに緩く首を傾げた。そんな何気ない動作にも心が動揺する。
どうしようか、何を言えば――
「……頬に、ゴミが」
「え……?」
右手の人差し指の先で、譲さんの頬にゆっくりと触れた。傷つけないように、指の腹で一瞬拭うだけの動作で。
ゴミなんて付いてないのに、とっさにそんな事を言って、俺は。
「あ、ありがとう」
俺は、下らない嘘をついてまでも、神聖なこの人に、触れたかった。
「ちょっと、お兄、なに顔赤くしてるのー!」
「え?」
「だめだめ! 孝文はあたしのだからね。あげないからねっ」
「美波、何バカなこと言ってんの。早く食べなさい」
「あ、いやごめん、ビックリしたから……」
申し訳なさそうに顔を僅かに赤らめて俺を見る譲さんが、可愛い。
ああ、可愛いって、適当に今までずっと口にしすぎていた。挨拶くらいの気持ちで、簡単に誰にでも言ってたかもしれない。それくらい、今までは軽い言葉だったのに。
もう譲さん以外には言いたくない、思いたくも感じたくもない。二度と――
「いいえ。自己紹介遅れました、辻浦孝文です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「うん、よろしくね」
差し伸べた右手は欲望に満ちて決して綺麗なものじゃないのに、差し出された右手はそれさえも全て赦してくれるような気がした。
触れたい。
もっと触れたい。
ずっと触れていたい。
このまま時間が止まって欲しいなんてファンタジーのような事を、今、本気で願っている。
それでも離れていく右手。じんわりと余韻を残す譲さんの体温。
何でこんなことで涙がこみ上げてきそうになっているんだろう。馬鹿みたいだ。
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