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***
「つ、辻浦君、どこ行くの?」
「……」
「辻浦君」
「まだ、昼休み時間がありますから」
僕を逃がすまいと、社内なのにも関わらず僕の腕を固く握り締めてどこかに向かっている辻浦君に焦りが生じる。
擦れ違う人擦れ違う人が何事かと振り向いているのが分かる。
「辻浦君、社内だからっ……目立つ、から」
「俺は構いませんよ。貴方と噂が立つなら、むしろ喜ばしい限りです」
こちらを振り向く様子も無く淡々と言った辻浦君は、僕達のフロアとは別の階の男子トイレへと僕を引き込んだ。
運が悪いとしか言いようが無いけど、誰もいない。こんな時に限って……!
空いている個室のトイレに僕を押し込むと、辻浦君はそのドアを後ろ手に閉めた。
「っ! ん、んんっ!」
途端、獣が獲物に噛み付くように、僕の唇に辻浦君のものが重ねられ、貪るように吸われた。
「は、……んっ」
下唇と上唇をつつ、と辻浦君の舌でなぞられて、意図せず身体が震えてしまう。
そのまま啄ばむだけの優しいキスを繰り返して、最後にリップ音を立ててその唇が離された。
「譲さん、俺にやきもちを焼かせたいの?」
「っ、そんなんじゃ、ない……」
「じゃあ、何であんな女からのチョコなんか受け取ろうとしたの?」
「そんなの、……辻浦君だって」
「俺は譲さんが嫌がってくれるなら、他の誰からの贈り物も受け取るつもりは無いです。
俺は嫌なんです、あんな……あんな、まるで本命ですなんて軽々しく装って、貴方に近づこうとするなんて、絶対に嫌なんです」
辻浦君とは付き合っているわけじゃない、恋人関係を許したわけじゃ、ない。
妥協案を出しただけだ。辻浦君が僕を好きでいることを、許した。でもそれはあくまで今の辻浦君だから。以前の彼なら絶対にそんなこと許せないだろう。
仮に辻浦君が記憶を取り戻したのなら、僕は彼を受け入れられなくなるだろう、確実に。
今の、まるで人が変わったような……いや、きっと今の辻浦君こそが本当の辻浦君で、その辻浦君が僕にも穏やかに接してくれるなら、そこまで拒絶をしなくてもいいんじゃないかと思えたから、……だから妥協できたのに。
でもこんな風じゃ、以前のような――記憶を失くしてしまう前のように、戻ってしまうんじゃないだろうか?
不安はどんどん膨れ上がってしまう。
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