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「譲、ビーフシチューとスープとご飯ね、自分でよそいなさい」
「うん。母さん、僕は、ええと……辻浦君? の隣で良いの、かな?」
突然俺の名前が譲さんの口から発されていて、俺は突き動かされるように顔を持ち上げた。
空いている隣の席。
こんなに近くに、少し動けば触れてしまえる距離にあの人が来るんだ。
俺の心臓の音や不規則な呼吸があの人にばれてしまうかもしれない。そんな事になったら……ものすごく格好悪い。訝しがられるかもしれない。
それでも、もっと近くで見たい。
もっと近くであの人を感じたい。
「ええと、――初めまして。美波の兄の高瀬譲です。美波のこと、これからもよろしくね」
そんな風に、ぎこちなく笑んだ譲さんの表情は、俺の慣れた笑顔なんかとは比べものにならないほど神聖だった。
この笑顔は俺に向けられたもの。
今この人が発した言葉は全て俺に向けられたもの。
俺だけのもの、だ。
すぐ隣にいる人がキラキラと輝いて見える。何でだろう? 何でこんなに綺麗なんだ。この人。おかしい、同じ人間なのに。
声だって、一言一言が鼓膜を緩く刺激してそれがひどく心地良い。何も面白いことも言っていないのに、ずっと聞いていたい。
この人をもっと知りたい、もっと仲良くなりたい、俺のことも知ってほしい、そうして俺のことを――求めて、くれたら。
今まで何時間何ヶ月何年と過ごしてきた人達にこれっぽちも思えなかったことが、たった一時間にも満たない時間しか同じ場所で過ごしていないこの人には何故思うのだろう?
……いや。時間じゃ、ないんだ。
理屈じゃないんだ、きっと、人を本当に好きになると言うことは、人に惹かれるという事は、きっと、そう。過ごした時間の長さなんて関係ないんだ。
「譲、さん」
気がついたら口走っていた。
心の中で呼んだはずの声が実際に口の端からこぼれ落ちていた。
三人の視線が俺に集中しているのが分かる。
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