0人が本棚に入れています
本棚に追加
少年が立ち上がった。しかし逡巡は続いている。帰られるのだ、このまま何事もない顔をして帰ることができるのだ。しかし少年の足は、あの女の元に動いた。手足のない達磨の少しの歩みではあっても、確実に少年の歩は進んだ。亀のようにのろい歩みではあっても、確かに女の元へ。
少年には永遠の時間のように感じた、その道のり。
話に興じるアベックたちの間延びした声が、少年の耳に届く。バンドの音楽も回転数を間違えたレコード音の如くに、間延びして聞こえる。少年が立ち上がって、ものの五、六秒。三つのテーブル先に陣取っていたあの女が、今まさに目と鼻の距離にいる。そして階段も。
「あのお……」
少年は、自分でも信じられない程に容易く女に声をかけた。つまりつまりながらも、少年が女に話しかけた。訝しげに見上げる女に対し、精一杯の真心を込めて話した。付き添いの女の雑音にはまるで耳を貸さず、ひたすら女に向けて発信した。少年の熱い目線を避けて俯くだけの女に対して、異国の言葉で語り続けた。
最初のコメントを投稿しよう!