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まるで、孝彦の心情を見通してでもいるかのような呟きに、言い返す言葉が見つからないのは何故か?
孝彦が今まさに目にしている光景は、明らかに田中僚が殺害されたマンションの一室を思わせていたからだ。
あの現場で、自殺を図った緋冴と田中僚の近くにいたと思われる人物は三人。
この部屋の中、陽子、瑠依が緋冴の傍らにいた殺人犯だったと仮定したら、第三者の存在を否応なく匂わせるのは、間違いなく渡邊忍だ。
「この場面を見る限り‥‥‥。」
背後から響く、聞きなれた声。
「偶然にも疑似体験を起こしてショック状態に陥った。実際に現場に立ち会っていた私達だからこそ、そう感じてる。違う?孝彦‥‥。」
沈痛な表情で歩み寄った祥己の言葉だ。
「あの子は、現場にはいなかったと証言してるけど、もしかしたら殺人の様子を直接目撃していたという事も考えられるんじゃないの?」
沈黙を続ける孝彦の思惑を、すでに読み切っているのか、祥己は言葉の一線を明らかに踏みとどまっているかのようだ。
思わず握りしめた拳を、傍らの壁へと押し付けた孝彦。
直感的に巡らせた、ある思い‥‥。
「確かに、現場にいたかもしれないという事実は、安易に否定できなくなったのかもな。だが、殺人に手を貸したのかどうか‥‥それに関する証拠は、まだ何一つ見つかってはいないんだ。」
そう、つい先程、晃から知らされた渡邊忍の素性。
研究所から、まるで脱走でもしたかのように飛び出して来た本当の理由を、まだ誰一人として知らない。
「行こう‥‥。」
何かを噛み締めるかのように、部屋を後にする孝彦。
そんな後ろ姿を見届ける祥己だったが、その胸の中では、重苦しい思いが渦巻いては僅かな不安感に襲われていたのも事実だった。
『亜紀さんが、深入りするなって言ってた意味‥‥なんだか今になって分かったような気がする。一体、何が起こっているというの?私も、出来る事なら、あの子が殺人事件に関わっていない事を信じたいのに‥‥。』
突然に起こった、この出来事に、確かに誰もがある種の戸惑いを感じていた。
そして、誰もが抜け道を見失った迷宮へと、知らず知らずの内に足を踏み入れてしまった事に、今この時、気づく者は誰一人としていなかったのである。
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