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彼女は、これを絶好の機会と捉え、原本データを手に入れる為、この後、散々お酒を飲ませ続けたのである。
そして居眠る僚の姿を横目に、緋冴は彼の手元にあるカバンへと手を伸ばした。
「今が手に入れるチャンスだと私は思いました。」
だが、直前にして、彼女の腕を掴み返した人物に身体は一瞬にして硬直した。
その人物とは、まさに、すっかり眠り込んでいたと思っていた田中僚本人だったのだ。
「正体が知られてしまったと思い、動揺した私は、衝動的に隠し持っていたナイフを手にしたんです。」
恐ろしい程に震えるナイフの切っ先。
しかし、僚は次の瞬間、突然、そのナイフの刃先を素手で握り返したのだ。
背後から店長が、注文していたグラスを差し出そうとしていたからだ。
「あの人は、何事も無かったかのように親しげに店長と会話を交わしながら、震える私の腕ごとテーブルの下へと押し留めたんです。まるで手にしたナイフの存在を人目から隠すかのように‥‥。」
笑い声を上げ、店長にニコやかな表情を見せる僚。
その一方で、テーブルの下では、恐怖を手放せない緋冴の思い全てを受け止めようとでもしているかのように、痛みに動じる気配すら見せず、僚は、ひたすらナイフの刃先を抑え込んでいた。
「指先はこわばったまま‥‥私は、恐怖でナイフを手放す事も出来ませんでした。」
うつむき様、目にしていたものは、褐色の床下へと滴り落ちる赤い血痕‥‥。
そして、そんな光景を前に去来したものは、張り裂けんばかりの胸の痛みと、こぼれ落ちんばかりの涙だった。
やがて、立ち去った店長を静かに見定めながら、僚は再び緋冴へと眼差しを向けたのだ。
『このデータだけは、やめておいた方がいい。君の復讐とは恐らく関係のないものだから。』
「そう‥‥私がなぜ自分に近づいて来たのか‥‥。彼は初めから気付いていたんです。」
数日後‥‥。
西崎の不正事実に関する書類データの一部を、僚は突然、緋冴に何も言わずに手渡した。
これは間違いなく、田中僚が曽根山と西崎の間を取り持つ結び役を担っていたという事の証しに他ならない。
それが一体どこまで及んでいたのかは想像もつかないが‥‥。
「だとしたら、彼が元々、そういった関係の渦中にいた人物だったのか。それとも情報を探り出す為に、後から危険な行動に走ったのか。緋冴さん、君自身はどう感じてるんだ?」
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