第8話

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「いつからか、私は世間を生き抜く為には非情であるべきで、優しさや慈悲は無用の物だと‥‥。いや、母親のような生き方はしたくないと思うようになっていたのかもしれない。」 「いいえ‥‥それは真実じゃない。ホントは、自分でもわかっていたんじゃないですか?自らの内側から湧き出す、わずかな優しさや慈悲の心の中に、無意識に母親への面影を追ってしまう自分がいるのだと‥‥。」 記憶の中、母親の優しい笑顔よりも、自らの寂しさの方が勝っていたあの頃‥‥。 勇司は、見え隠れてしていた亡き母への思いを、必死に仕事にのめり込む事で見ないようにしていたのかもしれない。 まるで、母親が大地に残した大切なものを、降り積もる落ち葉で覆い隠そうとしていたかのように‥‥。 「確かに、この地位にまで昇りつめたのは、あなたの並み外れた経営手腕によるものだったのかもしれない。しかし、あなたの身近にいる人々は、とっくに、あなたが本来持っている優しさにも気づいているんですよ。だから、あなたをこうして今日まで支えて来た。その事に、あなた自身、もう気付いても良い頃なのでは?」 そんな亜紀から放たれた一言が、少しづつ光の渦となって、心に微かな風を生み出してゆく。 「二度と見る事はないと自分に言い聞かせてきた、あの母の笑顔を‥‥‥‥。そう‥か‥‥‥今さら、どこにも隠す必要はないんだな。」 思わず右手のひらで覆い隠した勇司の目頭に、滲む涙の痕。 まるで自らの内側に降り積もった落ち葉を、どこかしら遠くへと吹きさらってゆくかのように、静かに‥‥そして優しく‥‥寄り添う風は心へと流れ込む。 「もう、終わりにしましょう。あなたは元々、この光差す側の世界に生きようとする人間なんですから‥‥。」 必死にもがき苦しんでいる相手の心を解き放った瞬間にもたらされるものは、その人格の中にしっかりと根付いている未来への光そのものなのだ。 それは、亜紀が導き出したかった、北条勇司の真実の姿に他ならなかった。 視線の先に、曽根山院長狙撃事件で大勢の警察官達が立ち入り捜査をしている病院の建物が、大きくそびえ建っている。 隣接する建設途中の病室から斜め下へと見下ろす窓辺に、揺らぐ人影。 「ここで何をしている。」 姿を見せた孝彦が、厳しい口調で問いただすのも無理はない。 曽根山院長を狙ったであろう狙撃現場に、患者でもなさそうな男が一人佇んでいたからだ。
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