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「私には分かりません。あえて、それ以上は何も話してはくれなかったから‥‥。でも、彼の真偽に嘘は無かった。なぜなら、あの時、ナイフの刃先で手のひらを真っ赤な血に染めながら、優しく微笑みかけてくれた瞳が、今でも記憶の底に染みついて離れないから。‥‥あんなに悲しそうな眼差しで見つめられたら‥‥。そう、私の復讐心は、彼の心の前では、すでに消え去ってしまっていた。私は、あの時のあの人自身を信じたんです。私に証拠を手渡す事は、当然彼の身も危険にさらされる事に違いなかったから‥‥。」
そんな緋冴の告白を耳に、目を閉じた無言の霜沢は、二人が交わし合った沈痛な思いをただ静かに心へと留めていた。
曽根山達の事を探り出す事で、心の傷と共に生きようとしていた緋冴。
人間として愛する気持ちを6年前の火災と同時に全て燃やし尽くしてしまった‥‥。
そんな彼女が、田中との関係の中に温かな心の触れ合いを感じ始めたのだ。
「田中さんの存在が、緋冴さんの中で唯一信じられる本物へと変わったんですね。」
声にしない緋冴の言葉を、陽子がそっと代弁している。
「そして多分、田中さんも緋冴さんの事を‥‥。」
そう、緋冴は女として、そして人間として、再び他人の事を愛しく思える自分自身を取り戻そうとしていたのである。
田中僚という、一人の男性との出会いによって‥‥。
「もし復讐出来たとしても、決して心の闇が消える事はないでしょう。きっと一生抱えて生きて行く事からは逃れられない。それでも心の闇に小さな明かりを灯す事は出来ると分かったんです。もう一度、失われた命の重みと共に、精一杯生きてゆく事が大切だと分かったから‥‥。その力を与えてくれる人を、私は確かに見つけたんです‥‥。あの時、彼の流した赤い血は、私に対する、あの人の本心そのものだと教えられたから‥‥。それなのに‥‥。」
そう口にした途端、緋冴の瞳から大粒の涙が止めどなくこぼれ落ちた。
苦しみ続けた彼女の心が、全てを洗い流すかのような幾筋もの雫となって、見守り続けていた陽子、そして霜沢の胸の奥深くへと染み渡ってゆく。
「君が警察に嘘の証言をしたのは、もし外部にその情報源が漏れたら、彼が危険な立場に立つかもしれないと思ったから‥‥。だからあの時、君は事実を全て飲み込んだ。すでに彼が本当に殺されていたとも知らずに‥‥。」
霜沢の言葉に、緋冴はしばらく沈黙した。
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