(一)

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 いつもの穏やかな一日を迎えられるはずだった早朝に「コン……コン」と、遠慮がちにドアを叩く音が聞こえた。 “こんな朝早くに、何の用だ、一体”  不快な思いを抱えて、気怠い体をゆっくりと起こした。のっそりとベッドから降りて、ランニングシャツと猿股姿では具合が悪いとばかりに、ズボンをはいた。ポロシャツもと思いもしたが、早朝なのだから勘弁してもらうことにした。  この棟一番のお洒落者となっているわたしだ、変な格好はできない。正直のところ、ありがたくない風評なのだが、訳ありで演じざるを得なくなっている。  少し前のことだ。ハローワークで紹介された就職先の面接に出かける折に、バッタリと井戸端会議中の面々に出くわした。軽く会釈をして立ち去ろうとするわたしに、そうはさせじとばかりに老婆二人が立ちふさがった。満面に笑みを浮かべて、これ以上の退屈しのぎの獲物はいないとばかりに話しかけてきた。 「えっと…確か、先月越していらした…」 「はい、山本です」  腹立たしい気持ちになったが、グッと我慢の子で答えた。時間が気になっているわたしは「申し訳ありません。ちと急ぎでして」と、二人の間をすり抜けようとした。 「あら、そうなんですか」  言葉では済まなさそうな意味を漂わせるのに、その表情はまるで鬼瓦だ。とてものことに、そのまますり抜けるわけにはいかなかった。 「これから面接でして」  報告する義務など、当然ありはしない。しかし時間に追われる現在の状況を説明する上でピッタリの言葉と思ったのだが、裏に入ってしまった。 「山本さん、失業中でしたの? どちらを退職なされたの? 退職金なんか、たっぷりとお受け取りになったでしょうね?」  矢継ぎ早の質問だ。しかしわたしには、いちいち答える時間は、到底ない。 「ほんとに、申し訳ないです。お昼過ぎには戻ってきますので、またその折にでも」  平謝りに謝って、ようやくその場を逃れることができた。やれやれと思ったものの、甘かった。帰宅後に必ず話を聞かせてくれと、念を押された。
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