モモ

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「どうしたの?」  背後から声がして、思考が途切れた。振り向くとスーツ姿の男が革鞄とスーパーの袋を携えてこちらを見ていた。え、いや、と何の返事にもならない声が出る。男が近寄って来て苦しむ猫の姿を認めた。 「ありゃあ、轢いちゃったの。可哀想に」  男はしゃがみ込み、猫の様子を観察し始めた。可哀想に、と言った癖に男は機嫌のよさそうな顔をしている。まるで身内の葬儀中に微笑まれたような気味の悪さが襲ってきて、目を背けてしまう。すると男は僕が落ち込んでいると思ったのか、慰めの言葉をかけてきた。 「可哀想になあ。突然でびっくりしたろ。気にしない方がいい」  そこでようやく、男が可哀想だと言ったのは猫ではなく僕だったのだと気づいた。 「でも、僕が」 「勝手に飛び出してくるのが悪いんだよ。走行中の乗り物の前に飛び出してくるヤツがいたら、誰だってこう言うぜ。馬鹿野郎、死にてえのかって」  男が着ているスーツが高級そうに見えたせいか、乱暴な口調がひどく似合わなかった。猫は尚も抗議の声をか細く上げ続けていた。 「はいはい、今、楽にしてやるからな」  赤ん坊を寝かしつけるように男が言った。普通のサラリーマンのように見えるが、動物の手当てに詳しいのだろうか。荷物をアスファルトに置き、男は両手を合わせた。 「かんじーざいぼーさつぎょうじんはんにゃーみーたーじー」  唱えられた謎の言葉は、よく聞くとお経のようだった。決して言い慣れてはいない発音で、男はなむなむと手を合わせ続ける。やがて猫が一切の身動きを止め、静かになった。男が猫の首を撫でるような仕草をして、毛皮に埋もれていた何かを掴む。外されたのは首輪だった。それを男は僕の方へ差し出した。受け取ると、首輪は手作りなのか、桃色と水色の糸が織り込まれた組み紐になっていた。内側に書かれていた住所は、滲んでいて読めない。
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