最終話 三途の川のほとりにて

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最終話 三途の川のほとりにて

 穏やかに澄み切った空の青を映し込んで、川はゆったりと流れゆく。  涼やかに頬を打つ風。草のそよぐ土手道には、腰が曲がった老爺と、その手を引いて歩く死神。  静かな風景の中、ちゃぽんちゃんぽん、と小さな水音だけが、足元に置いたタライの中からかすかに響いている。  いつものように店先に座る英太郎は、心地よい陽気に眠気を誘われつつ、つい瞼が重くなってしまう。 「英太郎さぁん、寝てるのぉ?」  鼻にかかったような声が耳をくすぐった。 「……寝ちゃあいねぇよ」  瞼を持ち上げると、いつの間にか、お辰が目の前でじっと英太郎の顔を覗き込んでいた。お辰の両目には琥珀色の瞳が輝いている。酒呑童子の目玉だ。 「また来たのかい、お辰さん。その目玉にもう飽きちまったのかい?」 「まさかぁ。とっても気に入っているわよ。でも新しいのも欲しいじゃない?」  お辰はクスリと微笑む。  英太郎が、売り物じゃない、と常日頃から言っていた酒呑童子の目玉は、結局、先の大火騒動の時にお辰にやってしまった。お辰が閻魔大王を説き伏せて、左之吉が消されないように命乞いをする、ということと引き替えにだ。  おそらく目玉と交換でなくとも、お辰は閻魔大王の怒りを鎮めて左之吉を助けるために力を尽くしてくれただろうが、なんのかのと言っても、お辰は意外にちゃっかりした娘なのだ。  しかし、おかげで左之吉は、仕置き役の赤鬼に棍棒で百叩きされるだけの罰で済み、消されることはなかった。英太郎がおろくの目玉の力を借りてなんとか翌日には炎を鎮めることができたのも、閻魔大王の怒りを抑えるにはだいぶ役に立ったらしい。ちなみに、左之吉がおろくの魂を消そうとして首刈り鎌を持ち出したことについては、英太郎とお辰の胸の内に留め、他の者には秘してある。  当の左之吉だが、英太郎と一度喧嘩別れをしたものの、大火騒ぎが落ち着いた頃にはちゃっかりと英太郎の家に戻ってきていた。英太郎とお辰に迷惑をかけたことを知っているのか知らないのか、相変わらずあっけらかんとして何事もなかったかのように過ごしている。  その左之吉から聞くところによると、仕事の最中に、左之吉は一度おろくを見かけたらしい。  おろくは神田の実家の紙問屋に戻ってきていた。しかも、おろくは婿を取り、亭主は体の大きな、博徒上がりの男。久仁八という名で、おろくが通っていた賭場の元締めだったということだ。おろくが家を出てからの暮らしの面倒を見てやり、度々、実家にもおろくの様子を知らせていたことから、久仁八はおろくの両親にありがたがられ、婿取りの話はとんとん拍子だったらしい。  ヤクザ稼業から足を洗った久仁八は、おろくと助け合いながら、紙問屋で堅気の商売を真面目に切り盛りしているようだ。 「おう、お辰。来てたのか」  店の奥から左之吉が姿を現して、にこにことお辰に声をかける。 「俺に会いに来てくれたのか? 待たせちまってすまなかったな」 「何言ってんのよぉ。あたしは英太郎さんのお店に来たの。別にあんたの顔なんて見たいわけじゃあないんだからね」  お辰は冷たく言い放つと、フン、と鼻を鳴らして横を向いてしまう。  その頬がほんのりと色づいていることに気がついているのは英太郎だけだろうか。 「あまり素直じゃないのも考え物だぜ、お辰」 「あんたのそういうところが大嫌いなのよぉ」  眉根をぐっと顰めて嫌そうな顔を見せるお辰の琥珀色の瞳の中、薄桃色の焔が戸惑うようにゆらゆらと揺らめく。まるで持ち主の心を表しているかのように。  お辰にやってしまった琥珀色の瞳の目玉を入れていたびいどろの器には、今は例の赤い瞳の目玉が泳いでいる。またタライに入れて売り物にしても良かったのだが、英太郎はなんとなく、赤い目玉を売らずに手元に置いておきたかった。  ひんやりとしたびいどろに指先で触れながら、目玉の赤い瞳に自らの目を合わせる度、英太郎は、今も江戸の町で懸命に生きているであろうおろくに思いを馳せる。この目玉はおろくとともに沢山のものを映してきた。おろくの抱えていた苦しみも悲しみも、この赤い目玉が伝えてくれるような気がする。  そして、英太郎は思い出すのだ。この店で、子供だったおろくと初めて向かいあった時のことを。目玉を取り替えてやった時の、花開くようなおろくの笑顔を。 (了)               
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