第6話 幽霊おろく

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(四)  久仁八は黒船町の裏長屋の薄暗く湿っぽい路地に立っていた。  すぐ目の前はおろくの住まいだ。中に人の気配はない。  昼間からここを訪ねたのは特に用事があってのことではなかった。  ただ、早朝からひどく胸騒ぎがした。おろくの身にのっぴきならない「何か」が起こっているような気がする。  物心がつき始めた幼い頃から、久仁八の勘は妙に当たるのだ。それだけではない。いわゆる物の怪や幽霊など、普通の人間には見ることができないようなものも目にすることがある。  久仁八は、不吉な胸騒ぎを感じながらも、始めて会った日のおろくのことを今更ながら鮮明に思い出していた。  ちょうど一年前、久仁八達が根城にしている荒れ寺の本堂の片隅にボロ雑巾のようになって体を丸め眠っていた、痩せた野良猫のような娘。他のならず者に乱暴なことをされる前に久仁八が見つけることができたのは幸いだったと思う。  ゆすり起こし、娘が眠たげに目を開くのを見れば、驚いたことに右目の瞳が朱を塗り込めたように真っ赤だった。これは尋常ではない、と久仁八は直感した。娘の赤い瞳からは渦を巻く妖気のようなものが感じられた。  名前を聞けば、おろくという。久仁八は博徒の親分だけあって、浅草近隣で起きた事件は大小問わず子分を手足に使って、大した時間もかけずに調べることが出来る。神田の紙問屋でおろくという娘が行方不明になっているということもすぐに分かった。  家出娘に説教の一つ二つもくれてやってから送り返そうかと思ったが、なぜかおろくのことを放っておくことができなかった。不思議な赤い目を持ったおろくが、とてつもなく大きなものを抱え込んでいるように思えたからだ。そして、おろくはおそらく、その得体の知れない大きなものから溢れ出る「力」を持て余し、苦しんでいるようにも思えた。だとすれば、おろくの抱え込んだ「力」を少なからず感得することができる自分が彼女の傍にいてやるべきなのではないか。おろくが自身の持つ「力」と真っ直ぐに向き合えるようになる日まで。  普段は冷酷で血も涙もない鬼八を呼ばれ恐れられている久仁八だが、この時ばかりは何かに突き動かされるようにおろくのために懸命に動いていた。  久仁八はおろくの家まで自ら赴き、おろくを自分に預けてほしいと父親に頼み込んだのだ。  おろくの父は博徒・鬼八に怯えながらも、大事な娘をやくざ者に預けるなどとんでもない、と必死で拒絶の意を示した。当然のことだ。  久仁八は条件をつけた。自分はおろくには決して手を出さないし、他の者にも手を出させない。おろくの家出の期間は一年に限ることにし、一年が経ったらすぐにおろくは家に帰す。そして、おろくの近況を家の者に伝えるために久仁八の子分を店で働かせる。子分は夜は賭場に出入りし、それとなくおろくの様子に気を配り、昼間は店で働きながらおろくの近況をおろくの父に伝えるのだ。  おろくの父は久仁八の言葉を初めは胡散臭そうに聞いていたが、久仁八の真剣さが伝わったのか渋々ながらついに了承してくれた。  久仁八が紙問屋で働かせることにしたのは弥太郎という子分だった。万事そつなくこなせる器用なやつで、足を引っ張らず商いの手伝いをすることぐらいはできそうだった。唯一の懸念は弥太郎の額に物騒な刀傷の跡があることだったが、弥太郎は元々旅芸人だったため、白粉を顔に塗って上手い具合に傷を隠すこともできた。  全てはおろくには秘したまま進められた出来事であった。  しかし、おろくを家に帰すべき約束の日はもう間近に近づいてきている。期限を前にしておろくの身に何かあったら久仁八はおろくの父との約束を違えることになる。いや……約束のことがなくとも、久仁八は純粋におろくの身を案じてもいた。話すことは少なくとも同じ時間を近くで過ごす中で、久仁八はおろくに対してある種の愛おしさを確かに感じ始めていたのだ。 「おろく、いるか?」  返事がないと分かっていながら、久仁八は戸に向かって声をかけた。案の定、森閑としている。  戸に手を掛けるとカラカラと軽い音を立てて開いた。  四畳半の一間には物はほとんどなくさっぱりとしていて、どこかうら寂しげな感じがした。 「……?」  薄暗い部屋の中でふと何か影のようなものが身じろぎしたような気がした。久仁八は目を細める。部屋の片隅に固まった「影」がだんだんとひとつの形に像を結んでくる。 「おろく……?」  ぼんやりと透けて見えるが、それは確かにおろくの姿だった。  久仁八は部屋の中に足を踏み入れる。おろくの影も久仁八にツイッと近づいた。 「おろく、お前は……」  死んだのか、という問いはどうしても声に出して言うことはできなかった。  不意に久仁八の口元に暖かな感触が伝わった。おろくの影が久仁八に口づけたのだ。 「おろく!」  久仁八が叫ぶとほぼ同時に、おろくの影は霧散した。気配が消える。  呆然と佇む久仁八の口元には、おろくの柔らかな唇と熱い吐息の感覚だけが残っていた。               
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