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第8話 ムンザシ様
(二)
「英太郎さぁん?」
暖簾をかき分けて、お辰が店の中をひょいっと覗き込んだ。
「……何?」
英太郎はニコリともせずに仏頂面で返事をした。不機嫌はすぐに顔に出る。
「左之吉のやつ、いるぅ?」
英太郎の不機嫌に気がついているのかいないのか、お辰は首を傾げて訊ねてきた。
お辰の言葉を聞いて英太郎は、おや、と思った。店を訪れる早々、お辰が左之吉の事を聞いてくるのは珍しい。本心はどうであれ、お辰は左之吉に対して一貫して冷たい態度を装っている。そういえば、今日はいつものように牛頭、馬頭のお供も連れておらず、一人でここまでやってきたようだ。これもお辰には珍しいことだ。
「……左之吉がまた何かやらかしたのか?」
英太郎の胸の奥に墨をこぼしたように不安が広がる。
「うーん……多分そうだと思うんだけどぉ……」
お辰の言葉は曖昧だ。
「ねぇ、ムンザシノスクネノクロマロって知ってるぅ?」
聞き慣れない長い言葉が唐突にお辰の口から出たので英太郎は眉根を顰めた。
お辰は指先で宙に文字を書く。お辰の指がなぞったところはきらきらと輝き、文字が浮かび上がった。
牟射志宿禰久老磨呂。
「人の名か? 随分と古風だな」
「そうねぇ……千五百年前だか千六百年前だか……かっきり何年前かは忘れちゃったんだけど、そんくらい前の人だから。今の江戸の町が出来るずぅっと前にあの土地一帯で力を持っていた人なんだけど、その人の持つマジナイの力も強くって。どっちかというと、あたし達に近いくらいでね。いろいろ見えたり、呼び出せたりもして」
いわゆる呪術師というものなのだろう。だが、なぜ今そんな人物の名が出てきたのか、そのムンザシナントカがどう左之吉と関わっているのか、まだ英太郎には見当がつかない。
「そのムンザシノスクネノクロマロが死んだ時に地獄でも一悶着あってねぇ。力が強すぎて死神が束になってもどうしても魂を地獄まで連れてくることができなかったのよぉ」
「つまり、まだ現世に留まっていると?」
「封印したらしいのよねぇ……地の底に」
あたしも子供の頃のことだからよく覚えていないんだけどぉ、とお辰は言った。そういえばこの娘はこう見えて俺よりも年上だったな、と英太郎は内心、妙なところに感心した。
「封印はしたんだけどぉ……封の仕方が甘かったのかしらねぇ。ムンザシノスクネノクロマロの魂に沢山の低級霊達が寄り集まって混ざり合っちゃったりして、長い間放っておいた間に、すーごくアブナイものになってる……と思うし、事実なっていたわ」
「なっていた……? つまり、封印が解かれたのか?」
「そう」
「その封印を解いたのが左之吉だとでも?」
「多分、そう」
「それはないだろう。あんな力の弱い下っ端の死神に何が出来るっていうんだ」
「でもねぇ……」
お辰は英太郎を上目遣いに見上げた。
「閻魔庁の蔵に仕舞っていた首刈り鎌をね……左之吉が持っていっちゃったのよねぇ……無断で」
「……」
「江戸の町は今、大変よ……悪鬼になったムンザシノスクネノクロマロが暴れ回っている……もうすぐ地獄も死人で溢れて忙しくなるでしょうね」
古代の悪鬼の封印を解く……そんなことができる力を持つ者は……
(おろく……)
左之吉がおろくの魂と体を切り離したことで、おろくの魂に宿った蛇神の力が良からぬモノに狙われやすくなったのかもしれない。
だが、もしそうだとして、左之吉は首刈り鎌なぞを持ち出して何をしようとしているのか。地獄の首刈り鎌は文字通り、首を切り落とすための道具だ。ただし、生きている人間の首ではなく、死人の首を切り落とし魂ごと消し去ってしまうのだ。
(まさか、左之吉のやつ……)
英太郎には思い当たることがあった。
「ねぇ英太郎さん。左之吉は何をやらかしちゃったの? 首刈り鎌のことはまだお父つぁんには内緒にしているけど、今回の騒動に左之吉が噛んでるって知ったらお父つぁん、きっと左之吉を消してしまう……」
おろくのことはお辰は知らない。ただ、深くを知らないまでも、お辰が左之吉の身を本気で案じているのが伝わってきた。
英太郎は喧嘩別れをしたばかりの左之吉の事を考えた。
左之吉はおそらくおろくの首を切り落とし、魂を消し飛ばすつもりだ。おろくと賭けをやり、戯れにおろくの魂を抜き取ったことが原因で悪鬼の封印が解けた。しかも、おろくは幼い頃に左之吉が誤って地獄に連れてきてしまったために、不思議な力を身に宿してしまった娘だ。
閻魔大王が知れば、当然、全ての責めは左之吉にあると考えるだろう。確かに、左之吉が消される理由は充分過ぎる程ある。
今度の騒ぎに気がついた左之吉は、事が明るみに出て自分が消されてしまうよりも先に、問題の大元であるおろくを消してしまおうとしているに違いなかった。
(何が、お前には迷惑はかけない、だ!)
英太郎は土手道を去っていった左之吉の後ろ姿を思い出し、小さく舌打ちをした。
生きている人間の魂を勝手に抜き取った挙げ句、その魂を消し飛ばす。そんな大それた事をやって、もしばれたら、それこそ灼熱の業火で千回焼かれて、全身を千本の槍で貫き通されても文句は言えない。
「ね、英太郎さん……左之吉が言うこと聞くの、英太郎さんしかいないから……」
「そうかな……」
あいつが俺の言うことなんか聞くもんか、と心の中で毒づく。
「それを言うなら、お辰さん……閻魔大王様の心を鎮めることができるのこそ、あんたしかいないんじゃないのかい?」
「まぁ、そうねぇ……」
お辰は形の良い眉をきゅっと顰めて考え込んだ。
「でも、本当にムンザシノスクネノクロマロを目覚めさせたのが左之吉なら、いくら私でもお父つぁんの怒りを抑えることはできないわ。今だって青筋立ててピリピリしっぱなしなんだもん」
「そこを何とかできないかい?」
「そうねぇ……しつこくて、いけすかないやつだけど、昔からの馴染みだし、なんとか助けてあげたいし……英太郎さんのお友達だし……」
お辰が英太郎をチラリと見上げる。右の瞳は藍色。左の瞳は深い緑。その中に物欲しげな光が一瞬だけ煌めく。
お辰の視線は、英太郎の背後にある棚の上、びいどろの器に注がれていた。
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