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第9話 天の涙
(一)
文化三年(一八〇六)三月四日、芝から出火した炎は西南の風に吹かれてたちまちのうちに江戸中に燃え広がった。
至る所から黒い煙が立ち上り、日暮れの曇り空を、夕日ではなく、地上を焼き尽くす炎があかあかと照らしていた。
その中を大きな黒い八つ目の影の化け物がゆっくり動いていくのが、おろくには見えた。
一体何が起きているのか、おろくには未だよく分からないままでいる。自分のせいで、あの化け物が暴れ始めてしまったのか。
おろくはなす術もなく、燃えていく町並みを、荷物を抱えて逃げていく人々を、ただ呆然と眺めていた。
ふと、背後に気配を感じる。
「とんでもねぇモノを起こしてくれたなぁ、おろく」
死神の左之吉だった。
「しばらくしたら魂を体に返してやろうと思っていたのに……ちょっと放っておいた間に面倒事を引き当てちまったみてぇだな」
左之吉は、ちぃっと音を立てて舌打ちをした。
おろくは左之吉を睨みつけた。
「あたしは知らない……こんなこと! 元はといえば、あんたのせいじゃないか!」
「そうだな、俺のせいだ」
左之吉は悪びれずに返した。
「ガキのお前を間違えて三途の川に連れて行っちまったのも、そのためにお前の右目が妖力を宿したのも、そして、お前と賭けをやって魂を抜き取ったのも、お前の右の目の力がムンザシの野郎を目覚めさせちまったのも、今、江戸が燃えているのも……確かに全て俺のせいかもしれんな。だから、お前のことが地獄の偉いさん方に知れたら俺は罰を受ける。おそらく、消されちまうんだろうな、跡形もなく」
左之吉の右の手に何かが鈍く光った。緩やかな弧を描く刃物……草刈鎌のようなものだ。
「俺は消えたくない。だから、お前に消えてもらう」
物騒な言葉とはあべこべに、左之吉はにこりと邪気のない笑顔で笑った。
「そんな……勝手なこと」
理不尽な、とおろくは思った。心の奥底からじわりとした恐怖が止めどなく湧き出てくる。
「お前は言ったよな。自分はいつ消えてもいいと。忘れたとは言わせねぇぜ」
お小夜の命を巡って左之吉と賭け勝負をした時、自棄になって確かに言ったように思う。けれども、本心は、やはりおろくも消えてしまいたくない。生き返れるものならば生き返りたかった。意識の奥で、なぜか久仁八の姿や声が残像となってよぎっていく。
しかし、気がついた時には、左之吉はおろくの首に冷たい鎌の刃をぴたりとあてがっていた。
「お前は消えたい。俺は消えたくない。だからお前を消してやって俺が残る。理に叶っているじゃねぇか」
左之吉は、首刈り鎌をぐい、と無造作に引いた。
すぱりと、おろくの首が切断された。
胴から離れた首は、下へと落ちる。下へ下へ、ただ落下していく、暗闇の中をどこまでも。
これが「消える」ということなのだろうか。
おろくの首は終わることのない深い闇に吸い込まれていった。
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