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第9話 天の涙
(二)
落ちていくおろくの意識が朦朧となり、間もなく闇に溶け込んでいこうとする、まさにその時、おろくの両頬に暖かいものが触れた。
意識が戻る。もう、下に落ちていくような心地もしない。
誰かがおろくの頭を両手で掲げ持っているようだった。
「おろくちゃん……」
聞き覚えのある声が耳元で囁いた。
「ごめんね、おろくちゃん。あたしのせいでこんな目に会わせちゃって」
「お小夜ちゃん……」
目の前にお小夜の顔があった。お小夜が助けてくれたのだ、とおろくが思った。
お小夜の死に顔は痛々しくやつれて青白かったが、今、おろくが見ているお小夜はつやつやと血色が良く、丈夫そうで美しかった。
「ある人に、おろくちゃんを連れてくるように頼まれていてね」
お小夜は言った。
お小夜の手から誰かの手におろくの頭が受け渡される。お小夜の手はほっそりと柔らかいが、新しくおろくの頭を支えた手は大きくて堅く、男の手のようだった。
「ありがとう、お小夜。俺は現世の近くまでは行けないから、おろくが落ちきる前に捕まえてくれて助かった」
「いいの。あたしにも最期におろくちゃんに出来ることがあって嬉しいから」
お小夜と男が話し合う声だけが聞こえる。男の声は、いつかどこかで聞いたことのあるような、懐かしい響きを持っていた。
「おろく、久しぶりだな。俺のことを覚えているか?」
おろくの首を片手で支える男と目が合った。目玉売りの男だ、とおろくは思った。
幼い頃、目玉売りの足元に置かれたタライの水の中、魚のようにぴちゃぴちゃと泳ぎ回る色とりどりの目玉を夢中になって眺めていたことが思い出される。そして、あの時、おろくはこの目玉売りの男に右の目玉を取り替えてもらったのだ。
紅玉石のように煌めく、美しい赤い瞳の目玉。十数年の間、他人との見た目の違いに悩まされ、また、見えないはずのものが見える力にも悩まされ続けた目玉だが、目を付け替えてもらった時は大層嬉しかったのだ、とおろくは今更になって思い出す。
「この目玉のために辛い目に合わせてしまってすまなかったな、おろく」
目玉売りの男は片方の手の拳をおろくの顔のすぐ前に出す。そして、その手をゆっくりと開くと、手のひらには黒い瞳の目玉が載っていた。おろくは、その目玉に無性に懐かしさを感じた。
「これは、お前の元の目玉だよ、おろく。詫びと言ってはもう遅いかもしれないが、この目玉はお前に返そう。だが……」
目玉売りは、自分の顔と同じ高さになるよう、おろくの頭を掲げ持つ。
おろくの視線と目玉売りの視線がちょうどぶつかりあうようになった。
「その前に、今起こっている騒動を早いところ鎮めなければな。おろく……最後に見ておけ、この赤い目玉の本当の力を……」
おろくは目玉売りの目を見つめた。自分の赤い瞳が映っている。そして、目玉売りの男の目に映った自分の目の向こうに、江戸の町が見えた。
それを見ているうちに、おろくの意識は、だんだんと現世の江戸に引き戻されていった。
相変わらず、江戸の町は燃え続けている。いや、さらに西へ、おろくの実家がある神田や長屋のある浅草の方にまで火の手は広がっているようだ。おろくは、なぜかこの様子を天の高い位置から眺めているようだった。炎がひときわ輝いて不気味な火柱を上げる中心には、やはりあの化け物がいた。
その時突然、空を覆う曇天に切れ目が入り、ぱっくりと裂けた。裂け目は広がり、そこから現れたのは巨大な赤い瞳を持つ目玉だった。
空に現れた赤い目から、ぼたりぼたりと透明な滴が、大きな珠のようになってしたたり落ちる。涙だ。
涙が落ちた場所から炎がさぁっと吹き消されるように消えていく。
涙は影のような化け物の体の上にも落ちる。
化け物は動きを止め、グオオオオオウ……と、空気を振るわす叫び声を上げた。一瞬、炎が大きくなる。しかし、赤い目玉の涙によって、すぐに炎は消し尽くされる。
そして、そればかりではなく、涙に触れた化け物の体は、どろどろと溶け、崩れ落ちていく。化け物は八本の足を振り上げてもがいた。しかし、涙が化け物の体を溶かすほうが早いようだった。
最後に、化け物・ムンザシノスクネノクロマロの体はぐしゃりと潰れた。その残骸は、たちまちの内に細かい煤となって強い風に粉々に吹き散らされていく。
「ご苦労だ、おろく」
耳に目玉売りの声が響いた。
気づけば、おろくはやはり首から上だけしかなく、ぽつんと暗闇の中に転がされていた。
ふと、右目から何かをグリンとくり抜き取られるような心持ちがする。そして、別の何かをはめ込まれた。
「目玉はもとに戻したぞ、おろく。これからは自分の幸せを考え、心穏やかに暮らしていくといい」
声だけが響く。
闇の中に、再びおろくの首がふわりと放り出された。しかし、今度は落ちていくような気はしない。どこかに向かって、闇の中を風を切り、おろくの首が飛んでいく。
光が見えた。
「ううん……」
呻くと、自分の声がやけにはっきりと聞こえた。
寒い。体中に冷たさを感じる。……そう、体中に。
おろくは、はっとして身を起こした。首は胴体にしっかりついている。
激しく雨が降って、おろくの体に打ち付けていた。
おろくは生き返ったのだ。
雨が打ち付ける水面に細かなさざ波が立っているのが目に入る。降り注ぐ雨の中を、焦げ臭い煤けた煙が流れていくのも。
おろくは川の上に漂う小舟の中にいた。舟は杭に引っかかり、海の方まで流されずに済んでいたらしい。おろくはこの舟の中で眠っていたようだった。その眠りがどのくらい長く、何日間に亘っていたのかは、よく分からなかったが。
「くしゅんっ!」
おろくはくさめをして、凍るような寒さに体を震わせる。そのおろくの両目の二つの瞳は、どちらも玉砂利のような黒い色の光を湛えていた。
後に江戸の三大大火として数えられる車町大火は、芝車町から出火した後、神田、浅草付近まで延焼し、翌日、三月五日の大雨により鎮火したものと伝えられている。
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