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第1話 目玉売り
(二)
半鐘の音がけたたましく鳴り響く頃には、もう火の手はすぐそこまで迫ってきていた。道という道は、家財道具を持って我先にと逃げだそうとする人々で溢れかえっている。
寛政六年(一七九四)一月十日。麹町界隈から出火した炎は折悪しくも西からの強風に煽られて忽ちのうちに延焼し、江戸に住む人々の生活を無惨に焼き尽くしていた。
おろくはただ兄の仙蔵の手を必死で掴みながらがむしゃらに走っていた。走っている間も恐怖のあまり歯の根が合わないほど全身は激しく震えている。
狂気じみた混乱の中で両親とはとうにはぐれ、幼い兄妹二人、自分たちがどこに向かっているのか、どこに向かえばいいのか、皆目分からなかった。ただただ、人の流れに従って、前へ前へと駆けていくしかない。少しでも、一歩でも、あの恐ろしい炎から逃れるために。
しかし……
「火が燃え移ったぞぉ!」
悲鳴に近い叫び声が上がった。
人の波にさらなる混乱が広がる。
仙蔵とおろくは、前から押し返される人々と、後ろから進もうとする人の群れの間にもみくちゃにされる形になった。
「おろく!」
仙蔵が叫ぶのと、二人の手が離れるのはほぼ同時だった。
「兄ちゃん……! 兄ちゃん……!」
おろくは泣き叫んだ。
目の前で火の柱が上がった。あつい。
逃げ惑う人の群れにおろくは突きとばされ、地面に倒れ伏した。全身を強く打ちつけ、息が止まるような衝撃が走る。それでも、おろくは立ち上がろうとした。しかし、次の瞬間には、おろくの小さな身体の上には幾人もの人間が折り重なるように倒れ込んできていた。
いたい……いたい……くるしい……!
もがこうにも身動きすらとれない。
炎に巻かれる人々の悲鳴、泣き声、怒号、絶え間なく打ち鳴らされる半鐘、家屋が燃え崩れる音……
おろくの意識は闇に吸い込まれるように次第に虚ろになっていった。
ああ……死んじゃう……
おろくは、深い闇の中で心が静かに凍り付いていくのを感じていた。
その時、おろくの手を誰かが掴んだ。
仙蔵の手とは違う。大人の手だ。暖かい温もりがおろくの掌にじんわりと伝わった。
気がつくとおろくは川のほとりの土手道を誰かに手を引かれながら歩いていた。
びっくりして思わず足を止め、立ちすくむ。
「どうした、おろく? 早く行かねぇと渡し船が出ちまうぞ」
頭上から、低い男の声が降ってきた。
顔を上げる。先ほどからおろくの手を引いているのは、眉が太くて顎が四角く角張った、どこか愛嬌のある顔をした若い男だった。
「おじさん……だぁれ?」
おろくは訝しげに訊ねた。
「俺か? 俺は死神だ。三途の川の渡し場まで連れて行ってやるんだからさっさと歩きな」
事もなげにそう言うと、死神を名乗る男はおろくの手を引いたまま、ずんずんと歩いていく。
(やっぱり、あたしは死んだのか……)
おろくは妙に納得したような、寂しいような気持ちになって、後はもう何もいわずに、しょんぼりと死神の後に付いて川沿いの土手道をテクテク歩いていった。
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