第3話 おろく

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第3話 おろく

(二)  おろくは手に持った駒札の束を眺めていた。  先程、イカサマを使って新顔のサムライから一つ残らず巻き上げてやったものだ。 (からかい半分のつもりだったけど……)  喉元に何かがつかえているように、気分が妙に重苦しい。  青い顔をしてフラフラと賭場を出て行ったあのサムライの後ろ姿を思い出す。なんとなく、あの男の影が薄らいで見えたのだ。 「どこ行くんだよぉ?」  立ち上がりかけたおろくに、額に刀傷のある男が薄ら笑いを浮かべながら声をかけた。まだ宵の口だろうに、と男は言外に言いたいのだろう。痩せた男の顔に蝋燭の明かりが映って、まるで骸骨のようだ、とおろくは思った。 「帰るんだよ。飽きたから」  おろくは、お構いなしにつっけんどんな態度で答えた。男とはこの賭場で何度も顔を合わせている。でも、おろくはこのヤクザ者の名前を知らないし、知ろうとも思わない。 「いいでしょう、親分?」  おろくは、庫裏座敷の奥の柱に背を預けてどっしりと座る、体の大きな男に声をかけた。  親分と呼ばれた男は、煙管を吹かしたまま何も言わなかった。無言であるという事は、良い、ということだ。  こうなれば刀傷の男もおろくには何も言えない。  おろくは立ち上がった。「さて、もう一勝負行くかい」と声がして、駒札ががちゃがちゃと音を立てる。そんなものを背中越しに聴くともなしに聴きながら障子をからりと開ければ、ひんやりとした風が頬を打つ。  ほんのりと月明かりの照らす中、ぶらぶらと提灯を揺らしながら大川(現在の隅田川)沿いの道を歩いた。  水は深い闇を宿しながら堂々と流れる。おろくはこの川の傍を歩くのが好きだった。気持ちが沈んだ時も、川の水が自分の悩み事を海まで流していってくれるような気がする。 (ずぅっと昔も、こんなふうに川沿いの土手道を誰かに手を引かれながら歩いたっけ……いつのことだったのか、誰と一緒だったのか、すっかり忘れてしまったけれど)  道に沿って植わった柳の木の葉がさらさらと揺れて、仄白く光る五、六個の人魂がふわりふわり、上へ下へと宙を舞い遊びながらおろくを追い越していった。  川で溺れた幼子達の霊か……おろくは目で追った。  肉体を離れた後も、こうして友達と連れだってじゃれあいながら無限の時と空間にたゆたう者達。  意外に寂しくはないのかもしれない。 (本当は生きているあたしの方が寂しがっているのかも……)  おろくは溜息をついた。  誰かとすれ違う気配。土を踏む音。おろくの横を、血の滲んだ裸足の二本足だけがサクリサクリと通り過ぎていく。  この世ならぬ者との邂逅は、おろくにとっては日常茶飯事だった。  おろくには、普通の人間には見えるはずのないものが見える。しかし、それは決して生まれつきの能力というわけではなく、そもそもの事の発端は、十二年前、幼いおろくが大火事に巻き込まれたことにある。  あの日、火事の大混乱の中、気を失って往来に倒れていた五歳のおろくを父親が見つけ、助け出した。目立った怪我もしていないように見えたおろくだったが、目を醒ましてみると、右目の瞳が真っ赤な色に変わっており周囲を驚かせたのだった。原因はよく分からないが、倒れた時に目の内側に怪我をして瞳の色が変わってしまったのかもしれない。  しかし、瞳の色以上に、おろくの視界に入る世界はその時からガラリと様相を変えてしまった。  一番最初に見たのは、火事の時に死んだはずの兄の仙蔵だった。  おろくと仲が良かった兄は、眩しい程の白い光に照らされた座敷の真ん中に、両手をだらっと下げて一人ぽつんと座っていた。 「兄ちゃん」  おろくが声をかけると、仙蔵はゆっくりとこちらに顔を向けた。その目はうつろで、凍り付いたように無表情だった。おろくのことが分かっているかどうかも怪しげだ。「兄ちゃん」と、もう一度呼びかけると、兄の姿形はぐしゃりと歪み、光の中にサラサラと溶けていった。  火事の後に新しく建て直された家の中で出会った、白昼夢のような出来事だ。  しかし、母親に「兄ちゃんがさっき来ていたよ」と伝えると、母は「仙蔵はもういないんだよ」と答える。寂しげな表情の中、おろくの言うことに対して戸惑うような様子が感じられた。  やがて、おろくは成長するにつれ、「自分にだけ見えることは他人に喋ってはならない」ということを学んだ。  この世にさまよう霊魂も、幽鬼達も、物に宿る付裳神も、おろくには確かに見えるものであっても、それを口に出して言うだけで周りから気味悪がられた。  それに加えて、ただでさえおろくは見た目が他の人間とは違うのだ。  近所の子供たちからは赤目と言ってからかわれることもしばしばであった。 (あたしは寂しかったんだ……)と、おろくは自分の身の上を振り返るに付け、いつもそう思う。他の子供たちからからかわれ仲間外れにされたことが、ではない。  自分が見て、感じていることを家族にも誰にも話せず、分かりあえない、ということが何よりも辛く、寂しかった。 「あの子は、あんな目の色だから嫁に行くこともできないだろう。今からでも何か芸事でも習わせようか……」と、両親が話しているのを立ち聞きし、悲しくなって家を飛び出したのがもう一年前……でも、それもきっかけに過ぎない。  誰とも分かりあえない寂しさ、寄る辺のなさに耐えきれず、家を飛び出すしかなかったのだ。  自分の過去を思い返しながら歩いているうちに、今度はゆらりとした柳の木の影から、白い女の顔がぼうっと浮かび上がった。 「おろくちゃん……」  幽霊の声にしては、やけに耳にはっきりと響いた声。 「お小夜ちゃん……?」  幽霊ではなく、おろくの顔見知りの夜鷹のお小夜だった。  顔見知りと言っても、彼女とは一度も昼の明るい自分に顔を合わせたことはない。夜半過ぎ、今夜みたいに賭場から黒船町の裏長屋に帰る時にたまに出会っては何となく言葉を交わす。「小夜」という名前以外は彼女の過去も境遇も、なぜ大川の川端に立って夜鷹なんぞをやっているのかすら何も知らなかった。 「今日は寂しい夜だねぇ。通る人も少ないし……おかげで商売にならないよ」  お小夜はそう言って、ケホケホと乾いた咳をした。 「おろくちゃんはお寺からの帰り?」 「うん」 「一人歩きは気をつけてね。胡乱なやつも多いから……。もっとも鬼八親分の女、赤目のおろくって言やぁ怖がって手を出すヤツもいないだろうけど」  闇の中でお小夜がクスリと微笑む気配がする。 (鬼八の女、ね……一度も肌を合わせたこともないのにね)  おろくは苦笑して、仏頂面でいつも煙管を吹かしている「鬼八」の姿を思い浮かべた。本当の名前は久仁八(くにはち)である。  おろくが博徒の親分、久仁八の妾とは、全くもって名ばかりだ。久仁八は、死にかけた家出娘のおろくを拾い何かと生活の世話を焼いてくれるくせに一度もおろくに手を出してこない。何を考えているか全く分からない男だ、とおろくは思う。おろくとしては、本当に鬼八の女になっても良いと思っているし、そうならないことに、むしろもどかしさを感じてすらいるのだが。  しかし、周りからは、おろくはすっかり鬼八親分の囲い者のように思われている。それはそれで都合は良い。お小夜の言うように、おろくに不届きを働こうとする者がいないのもそのおかげだ。  ケホケホ……とまたお小夜の咳の音がする。 「大丈夫かい、あんたこそ……具合、悪いんじゃないの?」  おろくはお小夜の背をさすった。  ありがとう……と、苦しげな咳の合間にか細い声が聴こえる。  お小夜の影も薄い、とおろくは思った。  おろくの感じる「影」とは、光に当たってできる普通の影とは違い、おろくだけに見える命の気配のようなものだ。死期の近い人間は影も薄くなる。  お小夜は病を抱えているのかもしれない。  お小夜の咳が落ち着くのを待ちながら、おろくは暗い大川の水面を見つめていた。吸い込まれてしまいそうな程、深くて黒い色をしている。  なんとはなしに川上の方向に目をやると、星の煌めく夜空を背にして吾妻橋が影絵のように浮かび上がっていた。  その吾妻橋の上に誰かがいることに、おろくは気が付いた。  はっきり見えはしないが、その立ち姿や歩き方に見覚えがあった。 (さっき賭場に来ていたおサムライさん?)  あんなところで何をしているんだろう、と首を傾げたおろくの目の前で「おサムライさん」の体は橋の上から、ぽぅん、と宙に投げ出された、ように見えた。  ざぶん……と水柱が立つ。  おろくは息を呑んだ。 「身投げ……か」  咳が止まったらしいお小夜が、ポツリと呟いた声が耳の奥に妙に響くようだった。  やがて川面にぽうっと青白い光の玉が浮かび上がった。  あのサムライの魂だろう、とおろくは思う。  ギイ……ギイ……ギイ……  舟の櫓をこぐ音。  気が付くと目の前に一艘の舟が浮かんでいた。きっとお小夜には見えていない。おろくにだけ見える、この世のものではない舟だ。  ギイ……ギイ……ギイ……ギイ……  櫓を漕ぐ船頭は、角張らせた骨を月明かりに光らせた骸骨だ。  舟の舳先には、着流し姿の男が懐手で佇んでいる。  男はおもむろに手を挙げて川面に向かって手招きをした。それに誘われるようにふらり、ふらりと青白い人魂は男に向かって飛んでいく。  男が手を差し出すと人魂はその上にすぅっと収まり、男は光る魂をそのまま懐に入れた。  不意に男が振り返る。  目が合った。おろくを見てニヤリと笑う。  太い眉。角張った顎。どこか愛嬌を感じさせるその男の顔には、おろくは確かに見覚えがあった。                                   
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