第1章

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 僕は自販機で缶コーヒーとオレンジジュースを買って展望台にあがった。千賀子は先にあがって風景を眺めているはずだったが姿が見あたらなかった。僕は、トイレにでも行ったのかと思ってしばらくその場で待ってみたが、戻ってくるけはいすらなかった。心配になったので探しにいくと、展望台下の人気のない端の方にいた。千賀子は手すりにもたれて風景を静かに眺めていた。僕はこどものいたずらのように後からおどかそうと思って抜き足差し足で近づいていった。あと3歩というところで千賀子のつぶやきが聞こえてきた。 「・・・すごくきれいな景色だよ。淳にも見せてやりたいよ・・・」  僕の足が止まった。  千賀子は、何を誰に言っているのだろう。ひょっとすると、失恋相手に言っているのか?  僕の気配に気づいたのか、千賀子は振り返って僕を見た。その頬には一粒の涙が伝っていた。千賀子にとって僕の出現はあまりにも唐突だったのだろう。あわてて顔を隠して涙を拭おうとした。  二人の間に冷たい風が吹き抜けていった。  僕は見てはいけないものを見てしまったと思う。だから、 「あ、ごめん!千賀子はオレンジジュースだったな、間違えた。また買ってくるよ」 僕はその場を離れた。僕はもう、他人の心の風景に踏み込みたくなかった。  それから僕らは展望台を後にして富良野に向かったのだが、千賀子は随分無口になっていた。そっけなく、道の指示だけをした。  それにしてもさっきまであんなに元気だったのに、何故いきなり泣いていたのだろうか。もし仮に僕の予想通りに千賀子は失恋旅行をしているとして、あんな風に泣いたりするものだろうか?もっと深刻な問題なのかも知れない。 とりあえず僕は何も言わず、千賀子の言う方向にバイクを走らせた。  麓郷の観光施設に着いた。  一通り見物してから喫茶店に入り、一休みした。千賀子は店員に何かを尋ねている。僕は一人でコーヒーをすすっていた。やがて千賀子は戻ってきて言った。 「ねえ、行ってみたいところがあるんだけど・・・」  あと1時間もしないうちに日暮れだが、僕はうなずいた。千賀子の行ってみたいところというのは、麓郷の先にある丘のことらしい。  日は随分傾いて、辺りは黄金色に包まれていた。  涼しいというより寒さを感じる風の中を走って行った。
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